諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
めいちゃん
偽物
について哲学的に考察していく。
めいちゃん「偽物」MV
偽物の歌詞
わすれてしまえたならいいさ
あかしてしまったならいいか
えがおまでそっくりだな
うまくやってきたのに
なんでだろう
ぼくにはゆめがあった
なにもたいそうなことじゃないよ
おりじなる
それだけがぼくに
たりないものだったんだ
またね、いきたえてゆくんだ
きょうまでのすべてが
にじんでゆく
わすれてしまえたならいいさ
あかしてしまったならいいか
えがおまでそっくりだな
うまくやってきたのになんでだろう
わすれてしまいたい
わすれてしまいたい
にごるみず
これがなみだか
わまもあわめたなわあ
すたしわたにびんたな
れあまのしうかのした
らなたよのつさちにに
れためうするながなな
たのをにべするいがが
だもさとてべむがれれ
れとまけをてねあるる
かへせてせののるくあ
のゆるゆめひこのろか
ききのくたかどだいい
おたなのてりうるちち
くいらかるががうにと
わすれてしまえたならいいさ
あかしてしまったならいいか
えがおまでそっくりだな
うまくやってきたのに
なんでだろう
わすれてしまいたい
わすれてしまいたい
にごるみず
これがなみだか
※縦読みの場合
わすれられただれかのきおく
またあなたのもとへゆきたい
もしまためをさませるのなら
あわのようにとけてゆくのか
わたしのすべてをせめたてる
めにうつるすべてのひかりが
たびかさなるむねのこどうが
なんのちがいがあるのだろう
わたしにながれるくろいちに
わたしにながれるあかいちと
序論
少年:
「メロディウス、
この詩を見てほしい。
横読みと縦読みで全く異なる
物語が浮かび上がる。
さらに、MVでは体の一部が次々と
失われるような演出もある。
これにはどんな意味があるのだろう?」
メロディウス:
「興味深い構造だな、少年。
この詩と映像の背後には、
人間存在の本質、
そして時間や記憶についての
深い問いが潜んでいるようだ。
一緒に考えてみよう。」
第1章 記憶と忘却
少年:
「詩の冒頭、
『わすれてしまえたならいいさ』
という言葉が繰り返されているけど、
忘れることが本当に救いになるのだろうか?」
メロディウス:
「忘却は一種の解放でもあるが、
同時に失うことでもある。
横読みでは“忘れたい”という
苦悩が表れているが、
縦読みでは“記憶”への
渇望や希望が浮かび上がる。
対立しているようで、
実は両者が補い合っているのではないか?」
少年:
「記憶が失われることで、
人は自分自身も失うのかな?」
メロディウス:
「そうだ。
記憶は個人のアイデンティティの一部だ。
しかし、それに縛られすぎると
新しい自分を作る余地がなくなる。
詩の語り手は忘れたいという願望と、
何か大切なものを取り戻したいという
矛盾した感情の中で揺れている。」
少年:
「でも、忘れること自体が
願望になるのはなぜなんだろう?」
メロディウス:
「苦痛から逃れるためだ。
詩の中の“にごるみず”は
曇った記憶や感情を
象徴しているのかもしれない。
だが、それが涙であるならば、
感情の浄化でもある。」
第2章 オリジナルとコピー
少年:
「この詩では
“えがおまでそっくりだな”や
“オリジナル”という言葉が出てくるけど、
人間が“本物”であるとはどういうことだろう?」
メロディウス:
「興味深い質問だな。
オリジナルは他者と異なる
唯一無二の存在であることを指す。
しかし、現代社会では
他者の期待や模倣によって
“コピー”が量産されることも多い。」
少年:
「語り手が『たりないもの』と
言っているのは、
きっと“本物”の自分という意味だね。」
メロディウス:
「その通り。
語り手は、他者と同じ笑顔を作り、
うまく生きているように見えるが、
それが虚構であることを自覚している。
詩の語り手にとって、
失った体のパーツは
アイデンティティの欠落を
象徴しているのかもしれない。」
少年:
「じゃあ、体のパーツが次々と
離れていく映像は、
自分自身が崩壊していく感覚を表しているの?」
メロディウス:
「そうとも言える。
体が失われることで、
語り手は次第に“物理的な存在”から
“精神的な存在”へと移行しているのだろう。
物質的な形に依存していない、
という暗示かもしれない。」
第3章 縦読みに表れる救済と希望
少年:
「縦読みでは少し雰囲気が変わるね。
“またあなたのもとへゆきたい”
という言葉が出てくる。
これは希望のようにも見える。」
メロディウス:
「そうだな。
縦読みには再生の可能性が描かれている。
横読みが破壊や喪失を語る一方で、
縦読みは再び立ち上がる力や
新たなつながりを暗示している。」
少年:
「でも、その希望は
確かなものなのかな?
“もしまためをさませるのなら”と
条件付きで語られているし、
“とけてゆく”とも書いてある。」
メロディウス:
「希望は不確かなものだ。
それでも、縦読みでは
語り手が自分を取り戻し、
他者と新しい関係を築こうとする
意志が見える。
人間は常に不完全でありながらも、
再び歩み出す力を持っている。」
第4章 映像の象徴性
少年:
「映像では指や腕、
そして心臓までもが離れていく。
これにはどんな意味があるのだろう?」
メロディウス:
「体のパーツは
それぞれ語り手の感覚や感情を
表しているのかもしれない。
左手の指は触覚や創造、
左腕は行動力、
そして心臓は生命や愛を象徴している。
これらが失われていく過程は、
自分を形作るものが
次第に失われていく苦しみを表している。」
少年:
「最終的に自分が完全に
消えてしまうわけじゃないの?」
メロディウス:
「そうとは限らない。
失うことによって、
新しい自分を見つける可能性もある。
映像が宇宙飛行士を
描いているのも重要だ。
宇宙という未知の空間は、
孤独と同時に新たな発見を象徴している。」
結論
少年:
「この詩と映像を通じて感じたのは、
人間の存在が決して
単純ではないということだ。
失うことで苦しむ一方で、
そこから新しい可能性が生まれることもある。」
メロディウス:
「その通りだ、少年。
この詩は記憶、アイデンティティ、
そして再生について
深い洞察を与えてくれる。
横読みと縦読みという構造の中で、
語り手は喪失と再生、
破壊と創造の間を揺れ動いている。
忘れることも、覚えていることも、
どちらも人間の本質だ。」
少年:
「じゃあ、この詩の中で
語り手が求めている“オリジナル”って、
結局は新しい自分自身ということなのかな?」
メロディウス:
「その可能性が高い。
オリジナルは固定されたものではなく、
常に変化し続けるものだ。
語り手にとって、
縦読みの希望がそれを
象徴しているのかもしれない。
だからこそ、忘れることも、
再び覚えることも、
どちらも重要な過程なんだよ。」