諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
SHINJIRO ATAE(與真司郎)
Kizuketa
について哲学的に考察していく。
- SHINJIRO ATAE(與真司郎)「Kizuketa」MV
- Kizuketaの歌詞
- 序論 愛と自己の真実―告白の意義
- 第一章 愛と自由の相互作用―サルトル的「他者の眼差し」からの解放
- 第二章 不安と受容―キルケゴールが語る「愛することの恐れ」
- 第三章 「君のいる場所へ」―存在論的回帰としての他者との出会い
- 第四章 ムスクの香りと記憶―ベルクソンの「持続」論に見る感覚の力
- 結論 素直さに向き合う勇気
SHINJIRO ATAE(與真司郎)「Kizuketa」MV
Kizuketaの歌詞
倒れたベッドに残る
ムスクの香りが
口付けの感触
今もまだ残ったまま
君がいたあの時間に
また戻れるなら
気づけば仕事も
手につかないこのままじゃ
部屋を飛び出し
ハンドル握りしめたまま
君の居る場所へ
離れて初めて気づけた
あの笑顔が忘れられない
こんなにも君の事だけ
愛してる訳
初めて気づけた
I feel like
I'm ready for
I feel like I'm ready for
こんなにも君の事だけ
愛してる訳
初めて気づけた
夜が来る途端に
君を思う毎日
連絡無いだけで不安に
もう会えないと
思ってしまいそう
君の側で笑って居たい
中途半端な自分を投げ出し
会って何も言わず
抱きしめたいんだ
今君の居る場所へ
離れて初めて気づけた
あの笑顔が忘れられない
こんなにも君の事だけ
愛してる訳
初めて気づけた
I feel like I'm ready for
I feel like
I'm ready for
こんなにも君の事だけ
愛してる訳
初めて気づけた
やっと気づけたんだ
素直に伝えたい
序論 愛と自己の真実―告白の意義
『Kizuketa』の歌詞は、
失った存在への気づきを通じて、
愛の真実と自己理解に至る物語である。
同時に、歌の背景には
與真司郎が自らの
セクシュアリティを公表した
事実が影を落としている。
告白という行為は、
単なる言葉の表明を超えた
自己実現の過程であり、
フーコーが『性の歴史』で語った
「真実を語る勇気(パレーシア)」の
一形態である。
真実を語ることは、
自己の本質を「他者」の前にさらし、
新しい関係性を生み出す力を持つ。
第一章 愛と自由の相互作用―サルトル的「他者の眼差し」からの解放
「こんなにも君の事だけ
愛してる訳 初めて気づけた」
という言葉は、
愛を通じた自己解放の瞬間を表している。
他者の眼差しによって人間は
「物」として固定される危険があるとした。
しかし、自己を隠さず
愛を告白することは、
その固定化からの脱却を意味する。
與真司郎の告白もまた、
「他者がどう見るか」という制約から解放され、
真の自由に向かう行為と捉えられる。
ここで愛は、
単に他者への感情を表すだけでなく、
自由を取り戻すための革命的な行為となる。
第二章 不安と受容―キルケゴールが語る「愛することの恐れ」
歌詞中、
「連絡無いだけで不安に
もう会えないと思ってしまいそう」
という表現は、
キルケゴールが述べた
「不安とは可能性のめまい」で
あることを想起させる。
愛することは、
相手を失う可能性を伴うため、
不安を避けて通ることができない。
だが、キルケゴールはまた、
愛が人間を自己の限界を超えて
成熟させると指摘する。
與真司郎が公表した告白もまた、
未知への恐怖を受け入れ、
自らを新たな関係に開くことである。
愛は不安を伴いながらも、
自己を拡張する道であるのだ。
第三章 「君のいる場所へ」―存在論的回帰としての他者との出会い
「離れて初めて気づけた
あの笑顔が忘れられない」
というフレーズは、
「現存在(ダス・ザイン)」を
想起させる。
私たちは、他者がいない時にこそ、
その存在の重要さに気づく。
與真司郎の人生における
自己の告白もまた、
失われた関係性の修復を求める行為といえる。
ハイデガーの言葉を借りれば、
「人はただ存在するのではなく、
誰かと共にあることで意味を発見する」。
他者との再会に向かう行動は、
存在の意味を再び問い直す営みである。
第四章 ムスクの香りと記憶―ベルクソンの「持続」論に見る感覚の力
「ムスクの香りが 口付けの感触
今もまだ残ったまま」という詩的表現は、
ベルクソンの「記憶の持続」という
概念に深く結びつく。
ベルクソンは、
記憶は単なる過去の再生ではなく、
感覚を通じて現在に生き続ける
「持続」であると述べた。
この歌詞でも、感覚の残り香が
過去の時間を今に引き寄せ、
語り手を愛する相手との再会へと駆り立てる。
感覚を通じた記憶は、
人間にとって未来への行動を導く力となるのである。
結論 素直さに向き合う勇気
「やっと気づけたんだ 素直に伝えたい」
という最後の一節は
愛の本質的な到達点を示している。
フロムは『愛するということ』で、
愛は「自己を投げ出し、
他者に完全に心を開くこと」と述べた。
素直さに向き合うことは、
単に感情を言葉にする以上の行為であり、
自己の存在そのものを賭ける行為である。
與真司郎の告白もまた、
彼自身の素直な姿を世に示す
勇気ある行動であり、
愛と自己実現が交差する地点に到達した証である。
『Kizuketa』は、愛、告白、
そして不安を伴う自己の解放
についての物語である。
哲学者たちの視点から見れば、
愛とは単なる感情にとどまらず、
自己理解の過程であり、
自由と真実に向かう勇敢な行為である。
與真司郎が自らの
セクシュアリティを公表したように、
真の愛は自分を偽らず、
素直に他者に向き合うところに存在するのだ。
※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。