諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
Ado
桜日和とタイムマシン with 初音ミク
について哲学的に考察していく。
- Ado「桜日和とタイムマシン with 初音ミク」MV
- 桜日和とタイムマシン with 初音ミクの歌詞
- 序論 桜の儚さと時間の逆説
- 第一章 出会いと別れの必然性―花びらの運命
- 第二章 後悔と自己の変容―「小さな一歩」の恐怖
- 第三章 思い出の中に閉じ込められる存在
- 第四章 タイムマシンと叶わぬ願い―不可逆の時間
- 第五章 愛と告白の遅延―「好きだったよ」とは何か
- 結論 桜の色が変わるとき、人は何を学ぶのか
Ado「桜日和とタイムマシン with 初音ミク」MV
桜日和とタイムマシン with 初音ミクの歌詞
今年も春が来ると
懐かしい声がするような
忘れられない
どれも思い出の空に飾っている
桜舞う
桜日和の空ふたり
歩く道にはひとしきり
あと数センチの息遣い
果てしなく思えてしまう
不意に触った
蕾が落ちていく
壊してしまうと気づいてから
小さな一歩ほど
怖く思っていた
君は笑っていたのに
「さよなら」よりも
相応しい言葉は
胸の奥につっかえて
初めて気づいたんだ
恋していたんだなあ
ああ桜が色づいたら
もう言葉を交わしたら
ボクらの見ていた
景色はいつかの思い出に
変わることが
決まっていたんだってさ
タイムマシンに乗ってねえ
あの日に戻してよ
叶わないことばっか願う
本当はどうせずっと君のこと...
なんて言えやしないのに
桜日和の空ひとり
この未来は見えていたのに
君の声が聞こえた
気がしてどこかに探してしまう
思い出とかの言葉で
蓋したボクの
後悔と散らかる部屋
いつまで立ち止まり
言い訳してるんだろう
変わらないままなんだろう
変われないままなんだよ
君は誰かと
笑えていますか
ふたり歩いた思い出の空は
桜の世界
もう戻れないとわかっている
届かないとわかっている
だから言えるよ 好きだったよ
あぁ桜が色めいている
あぁ今更気づいたよ
出会えばいつかは
別れがくると
近づいて離れていく
花びらのように
タイムマシンに乗ってねえ
あの日に戻してよ
叶わないことばっか願う
本当はどうせずっと君のこと...
なんて言えやしないのに
序論 桜の儚さと時間の逆説
「桜日和」と「タイムマシン」に
共通する主題は、
出会いと別れ、
そして時の不可逆性である。
桜は毎年咲くが、
それと同じ風景にはもう二度と戻れない。
時間とは、その本質において
不可逆的なものであり、
思い出は人間が時間に抗う
唯一の手段であるように見える。
この歌詞は、まさに
その「抗えぬ時間」と
「遅すぎた愛」の物語である。
第一章 出会いと別れの必然性―花びらの運命
1出会いが宿命づける別れ
歌詞の中で
「出会えばいつかは別れがくる」とあるように、
あらゆる出会いはすでに別れを含んでいる。
これは、哲学者ヘラクレイトスの
「万物は流転する」という命題に通じる。
彼は「同じ川に二度と入ることはできない」
と述べたが、それは常に変化が
不可避であることを意味する。
2 ヘラクレイトス「同じ川に二度と入れない」
出会いの瞬間から、
私たちはその終わりを含んだ
時間の流れに乗っている。
つまり、時間とは変化そのものであり、
愛もまた「終わりゆく運命」を生きている。
第二章 後悔と自己の変容―「小さな一歩」の恐怖
1 後悔は成長の否定か
「小さな一歩ほど怖く思っていた」
という歌詞が示すように、
自己変革への恐れが人を躊躇させる。
しかし、その結果として残るのは後悔である。
この後悔は、
サルトルの言う「悪い信仰」に近い。
つまり、選択の回避が不自由を招くのだ。
2キルケゴール「絶望は真なる自己への目覚め」
キルケゴールは、
絶望を通してこそ人間は
真の自己に目覚めると語った。
過ぎ去った瞬間に縛られ続ける主人公は、
まだ「真なる自己」への
到達を拒んでいる段階にある。
第三章 思い出の中に閉じ込められる存在
1 想起と現在―プラトン的記憶論
プラトンは、人間の知識はかつて
見た真実を思い出す(アナムネーシス)ことだとした。
歌詞の中で
「思い出とかの言葉で蓋したボク」
というフレーズは、
過去に縛られながらも
その記憶に依存する存在を示している。
2 マルセル・プルースト「失われた時間を求めて」
プルーストは、
記憶が人間を過去に
閉じ込める力を持つと説いた。
主人公もまた、
思い出の中で時間を止めようとするが、
その試みは「叶わないことばっか願う」
という矛盾に直面する。
第四章 タイムマシンと叶わぬ願い―不可逆の時間
「タイムマシンに乗って、
あの日に戻してよ」という願いは、
時間の不可逆性を否定する試みだ。
ニーチェが提唱した
「永遠回帰」の思想によれば、
人間は同じ瞬間を永遠に
繰り返す覚悟を持たねばならない。
しかし、主人公はその覚悟を欠いている。
2 ハイデガー「人間は時間に生きる存在である」
ハイデガーは、人間は
「存在と時間」によって規定されると述べた。
過去に戻りたいという願望は、
現在を生きることの困難さを表している。
第五章 愛と告白の遅延―「好きだったよ」とは何か
1 愛は過去にのみ存在するのか?
歌詞の中で「好きだったよ」
と過去形で語る愛は、
もう取り戻せないものとして表現される。
しかし、レヴィナスは愛を
「他者への責任」と定義した。
つまり、愛は現在においても
続いている責任の形で存在しうる。
2 レヴィナス「愛とは他者への責任」
レヴィナスによれば、
愛とは過去の感情ではなく、
他者への絶えざる責任である。
主人公の愛は失われたのではなく、
その責任を引き受けきれなかったことが問題なのだ。
結論 桜の色が変わるとき、人は何を学ぶのか
1 変わらぬ存在を生きる勇気
桜が散るように、
私たちは変わりゆく運命に
抗うことはできない。
しかし、変わらないままの
自分を受け入れる勇気が必要だ。
「変わらないままなんだよ」
というフレーズは、
その受容の苦しみを物語っている。
2 「タイムマシンに乗れぬ者の未来」
結局、タイムマシンに
乗ることはできない。
だからこそ、私たちは
「今ここ」に生きる覚悟を持たねばならない。
時間を超えようとする無益な願いを超えて、
現在を生きること。
それこそが「桜日和」が教える哲学である。
「桜の色が変わる」という出来事は、
時間の流れを象徴するとともに、
人間が避けられない
別れと向き合う必要性を示す。
それでも、私たちは過去に戻ることを
夢見ながら、
叶わぬ願いを抱き続ける。
だが、それこそが生きることの証なのかもしれない。
※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。