諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
米津玄師
Azalea
について哲学的に考察していく。
米津玄師「Azalea」MV
Azaleaの歌詞
咲いてたほら残してった
挿し木の花あの時のままだ
私はただ
あの時と同じように
君の頬を撫でたずっと
側にいてって
手に触れてって
言ったよね
君が困り果てるくらいに
誰も知らぬプルートゥ
夜明けのブルーム
仄かに香るシトラス
二人だけ鼻歌が
リンクしていく
せーので黙って
何もしないでいてみない?
今時が止まって見えるくらい
君がどこか
変わってしまっても
ずっと私は
(私は私は私は私は)
君が好きだった
君はアザレア
眩むように(ように)
熱い珈琲(珈琲)
隙間ひらく
夜はホーリー(ホーリー)
酷い花に嵐
その続きに思いがけぬ
ストーリー
(ストーリー、yeah)
どうやら今夜未明
二人は行方不明
積み重なるメッセージ
そのままほっといて
(Yeah)
目を見つめていて
もう少し抱いてぎゅっとして
それはクリムトの絵みたいに
心臓の音を知って
エンドルフィン
確かに続くリフレイン
ずっとそこにいたんだね
遣る瀬ない夜を壊して
感じたい君のマチエール
縺れ合うように
確かめ合うように触って
(触って触って
触って触って触って)
せーので黙って
何もしないでいてみない?
今時が止まって見えるくらい
君がどこか
変わってしまっても
ずっと私は
(私は私は私は私は)
君が好きだった
泡を切らしたソーダみたいに
着ずに古したシャツみたいに
苺が落ちたケーキみたいに
捨てられない写真みたいに
そこにいてもいなくても
君が君じゃなくても私は
(私は私は私は)
君が好きだった
君はアザレア
序論
少年:
この歌詞に漂う儚さや切なさは、
何か深いものを内包している気がします。
「君が好きだった」という
フレーズの繰り返しが、
過去に対する執着なのか、
それとも普遍的な愛なのか、
考えさせられますね。
メロディウス:
そうだね、少年。
この歌詞には時間の流れ、
人間の変化、
そして変わらない愛の感情が
絡み合っているようだ。
ここには哲学的な問いが潜んでいる。
「君がどこか変わってしまっても、
ずっと私は君が好きだった」
という一節が、
その核心だろう。
この言葉に込められた意味を、
我々の対話を通して明らかにしていこう。
第1章 時間の流れと変化
少年:
「咲いてたほら残してった
挿し木の花あの時のままだ」という
冒頭のフレーズには、
時間の経過が感じられますが、
その中で何かが変わらずに残っている、
という描写がありますね。
メロディウス、
これは何を意味しているのでしょう?
メロディウス:
少年、それは記憶の中に
刻まれた過去の一瞬の美しさだ。
「挿し木の花」が象徴するのは、
変化の中にあっても残る
「不変の核」だろう。
時間はすべてを流れの中に飲み込むが、
ある瞬間や感情は人間の心に
永遠に刻まれる。
だが、同時に
「君がどこか変わってしまっても」
という言葉が示すように、
愛する者は変化する。
ここで歌詞が問いかけているのは、
「変化しても愛は変わらず
存在できるのか」という問題だ。
少年:
変わってしまう
君と変わらない愛、
その間には矛盾があるように感じます。
でも、矛盾こそが
この歌の切なさの源なのかもしれませんね。
メロディウス:
そうだ、その矛盾を
受け入れることこそが
「成熟」だとも言える。
時間は変化をもたらすが、
人はその中で変わらない
何かを求め続ける。
愛とはそのような営みなのかもしれないね。
第2章 愛の本質と執着
少年:
「君が困り果てるくらいに」
というフレーズにあるように、
歌の主人公の愛は
一種の執着にも見えますね。
相手を困らせてしまうほどの愛、
それは愛と呼べるのでしょうか?
メロディウス:
良い問いだね、少年。
愛には純粋な形もあれば、
エゴが混ざり込む形もある。
歌詞中の主人公は、
確かに相手への愛が強すぎて
相手を困惑させている。
しかし、その愛が執着へと
変わってしまう瞬間もまた、
愛の一側面ではないだろうか。
クリムトの絵が引用されている
箇所は特に興味深い。
「心臓の音を知って」という表現は、
相手との完全な融合を求める
欲望を示している。
この欲望が愛を歪めるのか、
それとも深めるのかは議論の余地がある。
少年:
でもメロディウス、
執着が愛を歪めるなら、
それは本当の愛ではないのでは?
メロディウス:
一般的にはそうかもしれない。
しかし、執着も愛の中に含まれる
感情の一部だと考えることもできる。
完全な利他的な愛は
理想かもしれないが、
人間の感情はもっと複雑だ。
ここでの愛は、
人間の不完全さを
含むものとして
描かれているのではないだろうか。
第3章 永遠性と儚さの共存
少年:
「君はアザレア」という
比喩もまた興味深いです。
アザレアは花の名前ですが、
その花言葉には「儚い愛」や
「禁じられた愛」という
意味があると聞きました。
この歌詞では、主人公が
その儚さを受け入れつつ
愛し続けているように感じます。
メロディウス:
その通りだ、少年。
アザレアという花は
美しくも繊細で、永遠ではない存在だ。
それでも主人公は、
「君がどこか変わってしまっても」
その愛を持ち続けている。
ここには、永遠性を求める
人間の本能と、儚さを
受け入れる覚悟が同時に描かれている。
この矛盾を抱えることこそが、
愛の本質なのではないか。
少年:
確かに、
「捨てられない写真みたいに」
というフレーズも、
過去の一瞬を永遠化しようとする
人間の欲望を感じさせますね。
でも、その写真に映る
「君」はもういないかもしれない。
それでも愛し続けるとは
どういうことなのでしょう?
メロディウス:
少年、それは
「存在の変容」を受け入れる愛だろう。
「そこにいてもいなくても
君が君じゃなくても
私は君が好きだった」
という言葉には、
存在の本質に対する深い洞察がある。
相手がどのように変わろうとも、
その本質的な「君」を
愛するという態度だ。
これは愛が個人の記憶や
イメージを超えて広がる
可能性を示唆している。
結論 愛の普遍性と人間の条件
少年:
メロディウス、この歌詞を通じて、
愛がいかに複雑で矛盾を
はらんでいるかが分かりました。
変化と不変、
執着と解放、
永遠性と儚さ。
これらがすべて混ざり合った中で
人は愛を生きるのですね。
メロディウス:
その通りだ、少年。
この歌詞は、
愛が単純ではなく、
時間や変化、
自己と他者の間の矛盾を
包含するものだと教えてくれる。
そしてその矛盾を受け入れることで、
人はより深い意味で
愛を知ることができる。
米津玄師の「Azalea」は、
愛の哲学的な問いをリリカルに、
そして鋭く描いた作品だ。
歌詞の中に織り込まれた
感情や比喩の一つひとつが、
愛の普遍性と人間の条件を
反映しているのだよ。
少年:
ありがとう、メロディウス。
これからこの歌を聴くたびに、
愛について深く考える
きっかけになりそうです。
メロディウス:
それは素晴らしいことだ、少年。
歌の持つ力は、
私たちの心に問いを投げかけ、
時に答えを導くことにある。
この歌を通じて君が何を感じ、
何を思うのか、
それもまた愛の一側面を知る
手がかりになるだろう。