音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】HITOGOTO・中島健人/ヒトゴトの歌詞の他人事の意味を哲学的に徹底解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

HITOGOTO

ヒトゴト feat.kento Nakajima

 

 

HITOGOTO「ヒトゴト feat.kento Nakajima」MV

www.youtube.com

ヒトゴト feat.kento Nakajimaの歌詞

淡々と諸行無常の街の

雑踏に追い詰められてく

相対するこの狭い世界を今

愛するべき?否わからないや

ありえないゲスト

気づけばディストーション

ディスだらけるセッション

飛び交う鳥たち

愛のないメンション

ヒトリボッチテンションが下がり

暗いのらりくらりと

未だにわからないと

答えを探してる

そんなに知りたいなら

手を伸ばせばって笑っちゃう

こんな世の中

愛じゃ救えないのかな

どんな話もまるで

ヒトゴトのよう

マジョリティにno,noと

叫べばいいさ

指先が嘘を撫でる世だから

ヒトゴトでしょ

自分は自分らしく

笑ったもん勝ちでしょ

oh,oh, oh

絡まったmatterから

まさかの答え

固まった罠から空へ

ハッと気がついたら時も手遅れ

朝までバッハと踊り狂って

苦渋を噛み締め 自分を苦しめ

言の葉心が痛んで

コトなき得たアイツと

マリオネットのように

踊り子と虜,ゲーム

何もない感情

サディスティックな同調

大人さえ無表情の状況

ありきたりなその声を聴いても無駄

無駄ってわかっていた

ひび割れた

硝子体を揺らし叫んでる ooh

無機質な言葉と心

ポケットに隠してゆく

こんな世の中

愛じゃ救えないのかな

どんな話もまるでヒトゴトのよう

マジョリティにno,noと

叫べばいいさ

指先が嘘を撫でる世だから

ヒトゴトでしょ

自分は自分らしく

笑ったもん勝ちでしよ

oh,oh, oh

ああ沈んでいた心も

少しずつ浮いてゆく

深々としてるベッド

ヒトゴトのように

序論 現代の「ヒトゴト」世界

この世は、

もはや個々の感情や意志が希薄化し、

他者の存在や苦悩をまるで

「ヒトゴト」として捉える

無機質な世界となっている。

 

歌詞に現れる

「愛じゃ救えない」

「ヒトゴトのように」といった表現は、

社会の中で自己と他者の関係が

断絶されつつある現代を如実に

映し出している。

 

だが、この「ヒトゴト」とは

単に無関心を意味するだけでなく、

他者の存在を通して

自分自身の在り方を問い直す哲学的契機ともなる。

 

第一章 無常の街と存在の希薄化

「淡々と諸行無常

街の雑踏に追い詰められて」

という冒頭の一節は、

仏教的な無常観を思い起こさせる。

 

すべてが移ろい、

変わりゆくこの世界において、

個人の存在はどれほどの意義を持つのだろうか。

 

この問いは、ヘラクレイトス

「万物流転」の思想とも重なる。

 

すべてが流れ変わる中で、

我々は一体何を求め、

どのようにこの「狭い世界」を

愛するべきか、

という根本的な疑問に突き当たる。

 

「否」と答える歌詞の主体は、

確固たる意味を見出すことができずに

彷徨っているように見える。

 

 

第二章 愛の無力と虚無主義

「こんな世の中愛じゃ救えないのか」

これは深い虚無感を感じさせる。

 

フリードリヒ・ニーチェは、

「神は死んだ」と宣言し、

伝統的な価値観や宗教が崩壊した後に

訪れる虚無主義の危険を警告した。

 

愛や人間関係といった従来の価値が、

無力感に支配されてしまうこの時代、

歌詞の中でも愛が救いの

手段としては不十分だと語られる。

 

世界が無関心に満ちた場所であれば、

愛すらも虚しく響く。

 

第三章 他者との断絶と自己の確立

「愛のないメンション」

「ヒトリボッチテンション」

といった言葉から、

他者とのつながりが断絶され、

孤独が深まる現代の状況が浮かび上がる。

 

ジャン=ポール・サルトル

「他者は地獄だ」と言ったが、

ここでは他者との関係性がますます希薄化し、

自己の存在が他者との関わりを

通じてしか確立できないという困難に直面している。

 

この断絶は同時に、

自己が自分自身と向き合い、

どのようにして自らを確立するかという挑戦を意味する。

 

第四章 嘘とゲーム化された現実

「指先が嘘を撫でる世だから」

という一節は、

情報の過剰さと虚偽が蔓延する

現代社会の本質を指摘しているように思われる。

 

ジャン・ボードリヤール

シミュラークルとシミュレーション」で、

現実と虚構の区別が曖昧になる

ポストモダン社会を描写した。

 

現実がゲームのように変容し、

個々の感情や意思さえも

操作可能なものとして捉えられる中で、

我々は何を信じ、どのように行動すべきなのか。

 

 

第五章 自由意志とマジョリティへの抵抗

「マジョリティにno,noと叫べばいいさ」

と歌詞は主張する。

 

ここには、自由意志を持つ個として、

群衆心理に飲み込まれることなく、

自分自身を確立しようとする姿がある。

 

ジョン・スチュアート・ミル

「自由論」の中で、多数派の専制に対抗し、

個人の自由を守ることの重要性を説いた。

 

多数派に抗い、

自己の声を発することは、

現代における自己の存在証明でもある。

 

結論 虚無に抗う自己の肯定

「自分は自分らしく笑ったもん勝ちでしょ」

という最後の言葉には、

自己の肯定が込められている。

 

アルベール・カミュ

「シーシュポスの神話」で、

意味のない世界の中で

いかに生きるべきかを問うたが、

その答えは「反抗」であった。

 

世界が無常で虚無的であっても、

そこに抗い、自分自身を肯定することでしか

人間は救われないのだ。

 

「ヒトゴト」であれ、

「他者」であれ、

その全ての中に自己の意志を見出し、

笑いながら生きることこそが、

現代を生きる哲学的な態度である。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。