音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】幾田りら/Sign 心に嘘をついた自分を描く歌詞の意味を哲学的に解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

幾田りら

Sign

について哲学的に考察していく。

 

 

幾田りら「Sign」MV

www.youtube.com

Signの歌詞

どうして

崩れてしまうまで

心を嘘で誤魔化してたの

なみなみのグラス

今にもあふれる

最後のきっかけは些細なこと

そうあっけないくらいに

なだらかに堕ちていく

もう隠せない

見て見ぬふりしていること

本当はわかっていたはずだよ

どこへ向かう?

どこへ帰る?

透明なわたしを誰も見つけられない

夕暮れ時ホーム

人足は増えていく

泣いてしまった

こんなところで

いつもの自分でいられず

ゆるやかに沈んでいく

もう戻れない

見て見ぬふりしてきたこと

本当はわかっていたはずなのに

ただ行き交う人波に流され

まともに歩けもしないで

誰の目にも見えていないような

こんなわたしは

このまま終われない

生きていく限り

諦める以外の道標

ここにいるって確かに思えるために

探していく

もう隠せない

心から愛せる自分を

本当のわたしを見つけられるまで

待っている未来は不透明だけれど

生き抜けたなら

きっといつの日か

序論として

幾田りらの『Sign』は、

心の偽り、崩壊しゆく自己、

未来への迷いというテーマを中心に、

人間の存在の不安定さを繊細に描いている。

 

この楽曲は、

哲学的に見れば、

自己欺瞞や実存的危機、

そして新たな自己発見に至るまでの過程を反映している。

 

本論では、サルトルキルケゴール

ニーチェハイデガーといった

哲学者たちの洞察を交えながら、

歌詞に内在する存在論的な問いを探求していく。

 

 

第1章 自己欺瞞と心の偽り

「崩れてしまうまで

 心を嘘で誤魔化してたの」とは、

真実の自分と向き合わずに

偽り続ける心の状態を示している。

 

この欺瞞的な態度は、

サルトル「悪い信仰」

と呼ぶ自己欺瞞の一例である。

サルトルは、

人間が自由であることの

責任から逃れるため、

自分自身に嘘をつくことで

本来の自己を否定すると論じた。

 

彼の言葉を借りれば、

「人間はその存在の自由を恐れるあまり、

 自己を偽りの存在に縛りつける」。

 

主人公は、心の深い部分で

真実を知っていたにもかかわらず、

それを認めることを避け、

心が崩壊するまで誤魔化し続けていたのである。

 

第2章 内なる崩壊と自己喪失

「なだらかに堕ちていく」

「もう隠せない」

というフレーズは、

自己喪失の感覚を表している。

 

これは、キルケゴール

「絶望」として定義する現象に重なる。

 

キルケゴールは、

人間が自己を失うことを

避けようとするほど、

絶望に囚われると述べている。

 

「絶望とは、自己であろうとする意志と、

 自己であろうとしない意志との葛藤である」。

 

幾田りらの歌詞における

主人公もまた、自分を偽り続けることで、

最終的に自己喪失に陥ってしまった。

 

ここで重要なのは、

自己を隠すことによる精神的な崩壊のプロセスである。

 

第3章 透明な存在と無視される自我

「透明なわたしを誰も見つけられない」

という言葉には、

他者からの無視や

自我の存在感の喪失が感じられる。

 

これは、ニーチェ「超人」

概念に通じる。

 

ニーチェは、人間が自己を超越し、

孤独の中で自己を再発見する過程を強調した。

 

彼はこう述べる。

「あなたが自身の真実に到達するためには、

 まずは自らの孤独を受け入れなければならない」。

主人公は、

自分が他者に認識されないという

孤独を感じているが、

それこそが自己の本質に

向き合うための必要なプロセスである。

 

第4章 帰るべき場所と方向性の喪失

「どこへ向かう?どこへ帰る?」

という問いは、

自己の存在の目的や方向性を

見失った状態を象徴している。

 

これはハイデガー

存在と時間における

「方向性の喪失」というテーマと関連している。

 

ハイデガーは、

人間が未来に向かう際に、

自己の「可能性」に対して開かれた状態で

なければならないと述べた。

 

彼の言葉によれば、

「存在は未来に向かって開かれたものであり、

 その開かれた可能性こそが、

 我々が歩むべき道を示す」

 

主人公が感じる迷いは、

まだ見ぬ未来に対して心を開き、

自己の可能性を探る必要があるという

実存的な課題を浮き彫りにしている。

 

 

第5章 未来の不確かさと新たな自己発見

「未来は不透明だけれど」

と歌われる通り、

未来は決して明確なものではなく、

不確実性を伴っている。

 

ハイデガー

この「不確実性」

「可能性の開示」として捉え、

未来を未知の可能性に満ちた領域とした。

 

彼は「人間は存在する限り、

その可能性を追求し続ける」とし、

自己の未来が不透明であることこそが、

その人の生の本質であるとした。

 

幾田りらの主人公もまた、

不透明な未来を恐れながらも、

自分の「心から愛せる自分」を見つけるために、

その不確実性を受け入れ、

生き抜いていくことを決意している。

 

結論 透明な自己の確立

Sign』における主人公の葛藤は、

偽りと欺瞞による自己喪失から、

未来に向けた新たな自己発見へと

至る過程を描いている。

 

この過程は、哲学者たちが説いた

自己と向き合う旅に他ならない。

 

サルトルの自由の重圧、

キルケゴールの絶望、

ニーチェの孤独、

そしてハイデガーの未来への開示。

 

これらの哲学的視点を通じて、

Sign』の歌詞は単なる

内省的な感情の表現ではなく、

自己探求の旅路そのものであることが明らかになる。

 

透明な自己を発見するためには、

偽りの心を捨て、

孤独と未来の不確実性を受け入れることが必要であり、

その先にあるのは真の「生きる意味」の発見である。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。