音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】Creepy Nuts/オトノケ 「ダンダダンOP」歌詞の意味を哲学的に徹底考察!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

Creepy Nuts

オトノケ

について徹底解説していく。

Creepy Nuts「オトノケ」MV

www.youtube.com

オトノケの歌詞

ダンダダンダンダダン

ダンダダンダンダダン…

諦めの悪い輩

アンタらなんかじゃ

束なっても敵わん

くわばらくわばらくわばら

目にも止まらん速さ

くたばらん黙らん下がらん

押し通す我儘

そこどきな邪魔だ

俺はもう1人の貴方

貞ちゃん伽椰ちゃん

わんさか黄泉の国wonderland

御祈祷中に何だが

4時44分まわったら

四尺四寸四分様が

カミナッチャbang around

呼ぶ声がしたんなら

文字通りお憑かれさまやん

ハイレタハイレタ

ハイレタハイレタハイレタ

必死で這い出た先で霧は

晴れたデコとボコが上手く噛み合ったら

痛みが重なったら

ココロカラダアタマ

みなぎってゆく何だか

背中に今羽が生えたならば

暗闇からおさらば

飛び立っていく彼方

ココロカラダアタマ

懐かしい暖かさ

足元に今花が咲いたならば

暗闇からおさらば

飛び立っていく彼方

何度だって生きる

お前や君の中

瞼の裏や耳の中

胸の奥に居着いてるメロディー、

リズムにダンダダンダンダダン

ダンダダンダンダダン

今日も賽の河原ど真ん中

積み上げてくtop of top

鬼とチャンバラ

the lyrical chainsaw massacre

渡る大海原

Salsingin' sha-la-la

祓いたいのなら末代までの札束(okay?)

誰が開いたか禁后(パンドラ)

後は何があっても知らんがな

何百年待ったか超久しぶりの娑婆だ

ガキや若葉

まだコッチ来んじゃねーよ

バカが今確かに目が合ったな

こーゆーことかよ

シャマラン

ハイレタハイレタ

ハイレタハイレタハイレタ

眠り飽きた先で君が待ってた

盾と矛が肩を抱き合ったら

怒りが消え去ったら

ココロカラダアタマ

みなぎってゆく何だか

背中に今羽が生えたならば

暗闇からおさらば

飛び立っていく彼方

ココロカラダアタマ

懐かしい暖かさ

足元に今花が咲いたならば

暗闇からおさらば

飛び立っていく彼方

何度だって生きる

お前や君の中

瞼の裏や耳の中

胸の奥に居着いてる

メロディー、リズムに

ダンダダンダンダダン

ダンダダンダンダダン…

1. 序論:リズムの中の存在と無

冒頭の

「ダンダダンダンダダン

ダンダダンダンダダン」というリズムは、

存在の根底に流れる生命の躍動を象徴している。

 

この反復的なビートは、

我々が時間の中に束縛される存在でありながら、

その束縛を打ち破るために

音楽という媒介を通じて

新たな次元へと飛び立つ可能性を示唆する。

 

ハイデガーが語った

「存在は時間である」という命題は、

音楽の中で特に強く具現化される。

 

リズムは時間を感じさせ、

同時にそれを超越しようとする力でもある。

 

2. 第1章:諦めと自己主張の倫理

「諦めの悪い輩

アンタらなんかじゃ束なっても敵わん」

という一節は、

自己の内なる意志の強さを示している。

 

ここに描かれるのは、

他者に対して屈しない強固な自己主張である。

 

カントが

「道徳法則に従って行動することが、

自由の実現である」と述べたように、

他者の干渉に左右されることなく

自らの信念に基づいて行動することが、

真の自由である。

 

諦めず、他者に依存せず自己を貫くことは、

倫理的に崇高な行為であると解釈できる。

3. 第2章:「俺はもう1人の貴方」—自己と他者の関係性

「俺はもう1人の貴方」

というフレーズには、

自己と他者の深遠な関係性が表現されている。

 

ここでの「貴方」は、

単なる外部の存在ではなく、

自己の鏡像としての他者である。

 

ラカンの「鏡像段階」によれば、

我々は他者の視線を通じて自己を認識する。

 

つまり、自己と他者は

分かち難く結びついており、

他者がいるからこそ自己が成立する。

 

この関係性を理解することが、

自己の存在をより深く把握するための鍵となる。

 

4. 第3章:死と再生の象徴性

「貞ちゃん伽椰ちゃん

わんさか黄泉の国wonderland」

という表現は、

死後の世界に触れる象徴的な場面を描写している。

 

これは一種の儀式的な

死と再生のプロセスであり、

死を通じて新たな生へと移行する瞬間を示している。

 

エリアーデが指摘したように、

儀式的な死はしばしば再生の前兆であり、

個人の内なる変容を表す。

 

この歌詞においても、

暗闇を抜け、新たな次元へと飛び立つことで、

自己の再生が描かれている。

 

5. 第4章:心・身体・頭脳の統合

「ココロカラダアタマ

みなぎってゆく何だか」

というフレーズは、

心、身体、そして頭脳が一体となり

統合される瞬間を象徴している。

 

この統合は、

デカルトが提示した

我思う、ゆえに我ありという二元論を超越し、

スピノザが説いた

「心と身体は同一の実体の

二つの側面である」という一元論に近い。

 

すなわち、心と身体は分離された存在ではなく、

互いに影響し合い、

全体として一つの存在を形成しているのである。

 

6. 結論:音楽が宿る場所

「瞼の裏や耳の中 胸の奥に居着いてる

メロディー、リズムに」

という歌詞は、

音楽が我々の内部に

深く根付く様子を描写している。

 

この内在化された音楽は、

プラトンイデア論で語った

「美そのもの」を思い起こさせる。

 

音楽は単なる感覚的な体験ではなく、

永遠に存在する美の一形態であり、

それは我々の存在の根底に刻まれている。

 

Creepy Nutsの「オトノケ」は、

音楽のリズムとメロディーを通じて、

自己と他者、死と再生、

そして心と身体の統合という

哲学的テーマを浮かび上がらせている。

 

我々はこの楽曲を通じて、

単なる聴覚的な快楽を超え、

存在の深奥へと触れることができるのだ。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。