音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】ヨルシカ/アポリア 「チ。地球の運動」EDの歌詞の意味について哲学的に解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

ヨルシカ

アポリア

について徹底解説していく。

 

 

ヨルシカ「アポリア」MV

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アポリアの歌詞

描き始めた

あなたは小さく

ため息をした

あんなに大きく

波打つ窓の光の束が

あなたの横顔に跳ねている

僕の体は雨の集まり

貴方の指は春の木漏れ日

紙に弾けたインクの影が

僕らの横顔を描写している

長い夢を見た

僕らは気球にいた

遠い国の誰かが月と見間違ったらいい

あの海を見たら

魂が酷く跳ねた

白い魚の群れにあなたは見惚れている

描き始めた

あなたは小さく

ため息をした

あんなに大きく

波打つ線やためらう跡が

あなたの指先を跳ねている

長い夢を見た

僕らの気球が行く

あの星もあの空も実はペンキだったらいい

あの海を見たら

魂が酷く跳ねた

水平線の色にあなたは見惚れている

広い地平を見た

僕らの気球は行く

この夢があの日に読んだ

本の続きだったらいい

あの海を見たら

魂が酷く跳ねた

水平線の先を僕らは知ろうとする

白い魚の群れをあなたは探している

序論:夢と現実の境界線

アポリア」という言葉は、

ギリシャ哲学における「解決できない矛盾」や

「行き詰まり」を指す。

 

ヨルシカのこの詩は、

夢と現実の狭間に立つ曖昧な境界線を、

繊細な感覚と詩的な描写で表現している。

 

デカルトが『第一哲学諸考』で

疑問を呈したように、

我々が感じる世界は真に存在するのか、

それとも幻想の中に閉じ込められているのか。

 

「描き始めたあなた」のため息は、

現実と夢の間に生じる無力感と混乱の象徴であると言える。

 

デカルト

我思う、ゆえに我ありという言葉は、

この曲が持つ内省的なトーンと共鳴する。

 

夢を見ているとき、

我々は存在を疑うことができるが、

その疑いを抱く自己こそが

確かに存在しているという、

存在論的な問いがここには見える。

 

 

第1章:描写の詩学 – 影と光の相互作用

「僕の体は雨の集まり」

「あなたの指は春の木漏れ日」

という表現は、

感覚的な対比によって

存在の曖昧さを描き出している。

 

ヘーゲルの『精神現象学』において、

感覚的確実性は常に「即自と対自」

関係において成り立つ。

 

この詩における光と影、

雨と木漏れ日の相互作用は、

主体と客体の融合の試みとして解釈できる。

 

現実は、個々の感覚が相互に関係し合い、形を成す。

 

「波打つ窓の光」は、

我々が知覚する現実が常に変容し、

決して固定されたものではないことを暗示している。

 

この光が「あなたの横顔に跳ねている」

という描写は、

他者の存在が自らの意識に

どのように影響を及ぼすかを示している。

 

ハイデガーが述べたように、

他者との関係において「世界」が立ち現れるのである。

第2章:魂の跳躍 – 感覚と存在の揺らぎ

「あの海を見たら 魂が酷く跳ねた」

というフレーズは、

感覚的経験が魂にどのように

響き渡るかを強調している。

 

プラトンは『パイドン』において、

魂は肉体に縛られながらも、

理想的な真実を追い求める存在であるとした。

 

この曲における魂の跳躍は、

物質的な存在を超えて、

形而上学的な真実に触れようとする動きである。

 

「白い魚の群れにあなたは見惚れている」

という描写は、

自然の美しさに対する

驚きと畏怖の感情を象徴している。

 

カントの判断力批判における

崇高の概念に基づけば、

この瞬間は単なる美的経験を超え、

魂の自由を示す瞬間である。

 

崇高は、我々の感覚が限界に達する場所に現れ、

そこに新たな認識の可能性を開く。

第3章:無限への憧れ – 地平線と水平線の先

「水平線の先を僕らは知ろうとする」

という詩句は、

人間の根源的な知識への渇望を示している。

 

アリストテレスは『形而上学』において、

「すべての人間は本性上知を欲する」

という言葉を残しているが、

まさにこの詩は、

未知の世界を探求しようとする人間の姿を描いている。

 

地平線と水平線は、

我々が現実と捉える世界の限界を示しつつも、

その先に何があるのかを問い続ける象徴である。

 

ここでの「水平線の先」は、

ニーチェツァラトゥストラにおける

超人の概念と関連付けることができる。

 

超人は既存の価値観を超越し、

未知の地平を追い求める存在である。

ヨルシカの詩における気球は、

この超越的な旅を象徴している。

 

 

第4章:幻想と真実の対立 – 気球とペンキの空

「実はペンキだったらいい」

という願望は、

現実の真実性に対する懐疑を示している。

この詩において描かれる世界は、

確固たるものではなく、

脆弱な幻想として現れる。

 

これは、プラトン

『洞窟の比喩』を思い起こさせる。

 

洞窟の壁に映る影は、

我々が知覚する現実に過ぎず、

その背後には理想的な真実が隠されている。

 

現実が「ペンキ」であるならば、

我々はその表面を

塗り替えることができるのか?

 

それともその背後に何も存在しないのか?

ここでの問いは、

デリダ脱構築の理論とも共鳴する。

 

全ての意味は流動的であり、

確立されたものとしては存在しない。

第5章:結論:知識への渇望と探求

この曲が示すアポリアは、

我々が現実を理解しようとする努力において

常に直面する矛盾や行き詰まりである。

 

知識を求め、魂は跳躍し、

水平線の先を探求しようとするが、

その旅路は決して終わることはない。

 

これは、ソクラテスが提唱した

無知の知

つまり我々は真実を知り得ないことを

自覚することこそが知の出発点であるという

思想を反映している。

 

ヨルシカの『アポリア』は、

我々の存在とその意味を

問い続ける詩的かつ哲学的な旅である。

 

それは、感覚的な美しさと知識への渇望、

現実と幻想の間で揺れ動く人間の姿を描き出している。

 

この詩が示す探求は、終わることのない哲学的な探究そのものである。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。