音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】月詠み/ナラティブ 主人公の物語という意味を歌詞や言葉から哲学的に解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

月詠

ナラティブ

について哲学的に考察していく。

月詠み「ナラティブ」MV

www.youtube.com

ナラティブの歌詞

産まれたことを嘆いた夜も

生きる幸せを識る日も

どれも一繋ぎのナラティブ

これから起こることの果てに何が残る?

一つの闇も許さない、

幾多に灯る街の光は

されどきっとそうして

影を作って人知れず何かを枯らす

歪な今も夢じゃない

いつも事実は物語より

奇怪な筋書きをなぞり

僕を嘲け笑う

また流され誰かの意を承く?

焦がれながら描いた夢も

足掻きながら堕ちた現実も

それでもまだ呼吸をしている

息を止めど鼓動は止まない

何もかもが叶う気がした

辿り着けるとそう思えた

届かぬまま露と消える

交わしたはずの約束が嘘に変わる

薄暗い空より降りる

白に埋め尽くされた景色は

まだ夢と目を逸らしていた僕らに

薄暗い空より降りる

白に埋め尽くされた景色は

まだ夢と目を逸らしていた

僕らに突きつけるように

知り得ないはずの痛みを

眼を覚ましても忘れられずに

悲惨な数字だけが増えて

僕は現へと転げ落ちる

傷付くよりもっと傷付ける方が苦しいな

閉じた記憶で何かが手招く

どこかで出逢っていた気がした

取り戻せない悔やんだ過去も

失われた望んだ明日も

どれほどの痛みも罪も

いつの日か葬られるけど

焦がれながら描いた夢も

足掻きながら堕ちた現実も

それでもまだ呼吸をしている

息を止めど鼓動は止まない

産まれたことを嘆いた夜も

生きる幸せを識る日も

結末はそう未定のナラティブ

足を止めどこの星は廻るのだから

序論:生と物語の交差点

月詠みの「ナラティブ」は、

人生そのものを物語として

描写しているが、

その物語は一貫した筋書きではなく、

複数の可能性に満ちたナラティブである。

 

「産まれたことを嘆いた

 夜も生きる幸せを識る日も」

この一文は、生と死、

悲しみと喜びの対立を表しつつ、

それらが一つの物語の中に

共存していることを示している。

 

ヘーゲル弁証法を借りれば、

「存在の矛盾が物語を推進する力である」

ともいえる。

つまり、個々の出来事は

独立した意味を持つのではなく

相互に依存し、物語全体に統合されていく。

 

第1章:夜に嘆き、生に感謝する二元性

「産まれたことを嘆いた夜」

ここで語られるのは、

実存的な不安である。

 

サルトル存在と無でも述べたように、

人間は自由という重荷を背負いながら

その存在に対する根源的な不安を抱く。

 

しかし、その不安と同時に

「生きる幸せを識る日」が訪れる。

 

これは、ニーチェ

「運命愛」のように、

苦悩をも含んだ人生全体を

受け入れる姿勢を象徴している。

 

第2章:物語の未定性と人間の苦悩

「結末はそう未定のナラティブ」

この表現は、

未来が予測不能であることを強調する。

 

ハイデガー「死への存在」のように、

人間は常に未知の未来に

向かって生きているが、

その未来がどのようなものになるかは知り得ない。

 

この不確実性が、我々に選択と自由、

そしてその自由から来る苦悩をもたらす。

 

第3章:影と光の関係性――道徳的影響

「幾多に灯る街の光は

 されどきっとそうして影を作って

 人知れず何かを枯らす」

ここで語られるのは、

光が影を生むという矛盾した関係である。

 

この一節は、光(善意や希望)であっても、

それが必然的に影(犠牲や悪意)を

生むことを示唆している。

 

プラトンの『国家』における

「洞窟の比喩」にも通じるように、

人間は光を求めるが、

その光が必ずしも完全な真実や善をもたらすわけではない。

 

 第4章:運命の不確実性と夢の追求

「焦がれながら描いた夢も

足掻きながら堕ちた現実も」

夢と現実の対立がここで描かれている。

 

アリストテレスの「幸福論」における

「エウダイモニア」の概念では、

幸福とは理想を追い求めることで得られるが、

現実は必ずしもその理想に到達させない。

 

しかし、「呼吸をしている」

というフレーズからは、

いかに現実が夢と乖離しても、

生命そのものが持つ強靭さが示される。

 

 第5章:悲劇の中に潜む希望の意義

「傷付くよりもっと傷付ける方が苦しいな」

ここでの痛みは、

他者への加害による自己の苦悩を意味している。

ルソーが語った

「人間は本来自由であり、

他者を傷つけることでその自由を損なう」

という考え方が反映されている。

 

人間関係における痛みと

苦しみを通じて、

自己の成長や変容が生まれるのだ。

 

結論:永遠に続くナラティブとしての人生

「足を止めどこの星は廻るのだから」

最終的に、物語は続いていく。

 

この終わりなき運動は、

人生が決して停滞することなく、

常に変化し続けることを象徴している。

 

スピノザ「永遠の相の下で」

という概念を借りるなら、

個々の出来事や感情は

一時的なものであり、

宇宙的視点から見ればすべてが一つの大きな運動の中にある。

 

物語がどのように展開しようとも、

その運動自体が生命の本質である。

 

結論

「ナラティブ」という曲が描くのは、

我々の人生が一つの物語であり、

その物語は未完成であることだ。

 

未来を予測することはできないが、

それでも我々は呼吸をし、物語を続ける。

 

プラトンニーチェサルトルといった

哲学者たちの考え方に照らせば、

人生そのものが物語であり、

その物語をどう紡ぐかは、我々自身に委ねられているのだ。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。