諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
GARNiDELiA
極楽浄土
について哲学的に考察していく。
- GARNiDELiA「極楽浄土」MV
- 極楽浄土の歌詞
- 序論 祭囃子の彼岸へ誘う蝶
- 第1章 「迷い」と「楽しさ」―遊戯の中の存在論
- 第2章 「夢か幻か」―現実と虚構の解体
- 第3章 咲いて散る花の宿命と一夜の愛
- 第4章 「時を忘れる」狂乱の踊り―自由な自己表現
- 結論 狂い咲きとしての生―虚構と共に舞う歓喜
GARNiDELiA「極楽浄土」MV
極楽浄土の歌詞
月明り昇る刻灯る赤提灯
祭囃子の合図 ふわり
蝶が誘い出す
(ちょいと覗いて見てごらん)
迷い込めば抜け出せない
(楽しいことがしたいなら)
おいでませ極楽浄土
歌えや歌え心のままに
アナタの声をさぁ聞かせて
踊れや踊れ 時を忘れ
今宵共にあゝ狂い咲き
美しく咲く花も
いつか散りゆくもの
それならこの一夜を
もっと熱く愛したい
(ちょいと「いいこと」
いたしましょう)
これは夢か幻か
(嘘も真も無い世界)
ゆきましょう 極楽浄土
歌えや歌え心のままに
乱れる髪、息も気にせず
踊れや踊れ時を忘れ
今宵共にあゝ狂い咲き
(ちょいと「いいこと」
いたしましょう)
(嘘も真も無い世界)
ゆきましょう 極楽浄土
歌えや歌え心のままに
アナタの声をさぁ聞かせて
踊れや踊れ時を忘れ
今宵共にあゝ狂い咲き
今宵アナタと狂い咲き
序論 祭囃子の彼岸へ誘う蝶
この歌詞の冒頭に登場する
「赤提灯」と「祭囃子」は、
異世界への入り口としての暗喩である。
仏教的な極楽浄土とは、
本来はこの世を超越した
安らぎの場所を指すが、
ここでは幻想的な遊戯空間に変貌する。
人を迷わせる「蝶」の誘いが
示唆するのは、
自由意思と誘惑が曖昧に
交錯する瞬間である。
プラトンが『国家』で述べたように、
「人間の魂は光と影の狭間で真実を求める」。
しかし、この歌詞における
極楽浄土は、光でも影でもなく、
虚構と真実の狭間にある。
「ちょいと覗いて見てごらん」
というフレーズは、
自己探求を装った
欲望への招待と解釈できる。
第1章 「迷い」と「楽しさ」―遊戯の中の存在論
「迷い込めば抜け出せない」
という表現は、
人生は何度も繰り返され、
私たちはその瞬間を肯定するしかない。
歌詞の中で誘われる「楽しいこと」は、
一度きりの享楽に見えるが、
実際には永遠に繰り返される可能性を孕んでいる。
2 「覗いて見てごらん」―自ら囚われに向かう自由
人はなぜ、自ら「迷い」に
踏み込むのか?ここにおいて、
サルトルの「自由の刑」について
考えざるを得ない。
自由に選択することは
自己の囚われをも生む。
「楽しいことがしたいなら」という
条件付きの自由は、
快楽に向けた誘導と同時に、
そこからの解放が望めないことを暗示している。
第2章 「夢か幻か」―現実と虚構の解体
「嘘も真も無い世界」とは、
ジャック・デリダが述べる
「差延」を
体現する空間である。
そこでは、あらゆる意味や
価値が遅延し、
決して一つの真実に到達しない。
「夢か幻か」という
問い自体が無意味となる世界で、
歌詞は私たちに幻想と
現実を超えた遊戯的な存在を示唆する。
2 真実なき「極楽浄土」―欺瞞の快楽か、解放か
この「極楽浄土」は、
伝統的な救済の場とは異なり、
虚構が人々を自由にする空間である。
ベケットが言うように、
「人間は待ちながら生き、
何も来ないことを知りながらも希望する」。
この場所における歌や踊りは、
何も求めないことによって
自由に達することを象徴する。
第3章 咲いて散る花の宿命と一夜の愛
1 「刹那」の生とハイデガーの死への存在
「美しく咲く花も、いつか散りゆくもの」
という言葉は、
ハイデガーの「死への存在」を
思い起こさせる。
人間は、自らの有限性を
意識することで、
今この瞬間を真に生きることができる。
「それならこの一夜を
もっと熱く愛したい」という言葉は、
まさに有限性の受容と、
それを超える愛の肯定だ。
2 一夜の愛―無常への挑戦としての踊り
この一夜の愛は、
無常への挑戦であり、
私たちの儚い存在への祝祭である。
仏教的な「諸行無常」の
教えに従うならば、
あらゆるものは変わりゆく。
それゆえに、変わらぬものなど存在せず、
ただ今を愛することが唯一の真理である。
第4章 「時を忘れる」狂乱の踊り―自由な自己表現
1 ベンヤミンの「今-時間」と祝祭的瞬間
「時を忘れ今宵共に狂い咲き」
という表現は、ベンヤミンの言う
「Jetztzeit(今-時間)」に通じる。
これは、過去や未来を超えて、
現在そのものが解放される瞬間である。
踊りという行為は、
この「今」を永遠化する手段であり、
自己の解放である。
2 時間を越える踊り―カーニバルとしての自己解放
カーニバル理論において、
踊りは日常の秩序を破壊し、
自己を解放する祝祭的行為である。
ここでの「狂い咲き」は、
社会の枠組みを一時的に超えた
自由の表現であり、
時を忘れた「極楽浄土」の象徴である。
結論 狂い咲きとしての生―虚構と共に舞う歓喜
「今宵アナタと狂い咲き」という
言葉で終わるこの歌詞は、
虚構と現実の境界を超えた歓喜の表現である。
ニーチェが言うように、
「人生とは芸術作品であり、
踊ることこそその本質である」。
私たちは、時に真実を求めることをやめ、
幻想の中でこそ真に自己を表現できる。
虚構と遊ぶこと、これこそが
人間の生に内在する最高の自由である。
※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。