諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
菅原圭
onn
について哲学的に考察していく。
- 菅原圭「onn」MV
- onnの歌詞
- 序論 煙草と罪悪感の弁証法
- 第一章 喪失と代償としての愛:空虚を埋めるダンス
- 第二章 副流煙と天使:現実逃避と幻想の二重性
- 第三章 「来世」への希望と虚無:愛の終焉と展示という比喩
- 第四章 共犯者としての関係性:信頼と欺瞞の狭間で
- 結論 大人になることの苦しみと快楽の同居
菅原圭「onn」MV
onnの歌詞
煙草を吸ったの
別に君のせいじゃないけど
罪悪感も劣等感も
吐き出せる気がしたから
甘いのが食べたい
dancing night
朝まで遊んでよ
bartender
大人になりたいの
funny girl
抱きしめてよ
このmoneyで
赤いリップを買った
少し棘ある薔薇になりたくて
振り回してやりたくもなって
でも刺さらなくて
君の副流煙で天使になったら
後楽園まで飛んでって
シャッターになんか捕まって
来世まで展示連れてって
踊っていようよ二人でまた
揺蕩っていようよ
dancing dancing
空き箱目なんか
くれないでって
ねえ馬鹿でしょ?
あなたの幸せ願わないから
恨んでいいよ
天使じゃないよ
泣きやめないよ
雨のせい 気のせい
熱い夢見てた
火が消えそうなの
風も吹いていないのに
君の副流煙で天使になったら
後楽園まで飛んでって
シャッターになんか捕まって
来世まで展示連れてって
愛の代わりを探したって
どうせ二人は終わりだって
空き箱目なんか
くれないでってねえ
(dancing dancing)
雨のような女だったら
勝手に止んだのにrainy girl
触れれば消える癖に吐いた
副流煙の共犯者
愛してるって一言いえば
騙されてあげたのに
素直なとこが嫌いよ
パパラッチ形にしてよ
(君の副流煙で天使になったら
後楽園まで飛んでって
シャッターになんか捕まって
来世まで展示連れてって)
(愛の代わりを探したって
どうせ二人は終わりだって)
煙草を吸ったの
別に君のせいじゃないけど
野暮ったい感も
うざったい感も
吐き出せる気がしたから
序論 煙草と罪悪感の弁証法
煙草という象徴が提示するのは、
一時的な安堵と罪悪感の共存である。
歌詞の冒頭、「罪悪感も劣等感も
吐き出せる気がしたから」という
言葉に現れるように、
行為そのものが悪だと理解しつつ、
それを通じて自己解放を得ようとする
矛盾が見える。
「自己意識は否定の否定である」
という概念に対応する。
人は不完全な自己を意識することで、
その不足を充足しようと行為に向かうが、
その過程でさらに新たな欠如を見出していく。
第一章 喪失と代償としての愛:空虚を埋めるダンス
「甘いのが食べたい dancing night」
というフレーズが示唆するのは、
快楽への衝動であり、
これはしばしば実存的不安の
埋め合わせとして現れる。
キルケゴールは『不安の概念』で
「人間の不安は、
自己を回避するための
あらゆる手段に向かう」と述べたが、
この歌詞の人物もまた、
愛の不在を埋めるべく踊りや
享楽に逃避する。
その背後には、
欠如と欲望が循環する実存的空白がある。
第二章 副流煙と天使:現実逃避と幻想の二重性
「君の副流煙で天使になったら
後楽園まで飛んでって」という一節に、
煙草の副流煙が現実逃避の
媒介として登場する。
この一瞬の逃避を通じて
「天使」になることは、
現実の重圧から離れた
理想状態への渇望を象徴する。
プラトンは『饗宴』で
「人間は完全性への
エロスを追い求める」としたが、
この追求はしばしば幻想の産物となる。
歌詞の語り手は副流煙という
曖昧なものを介して、
自己の理想像を手に入れようとするが、
それがあくまで一時的な
逃避に過ぎないことも暗示されている。
第三章 「来世」への希望と虚無:愛の終焉と展示という比喩
「シャッターになんか捕まって
来世まで展示連れてって」という比喩は、
関係の終わりを前提としながらも、
未来への希望を捨てきれない姿を描いている。
ここにはサルトルの
「存在と無」の「無化」の概念が響く。
すでに終わったものに
意味を見出そうとするが、
それはもはや過去の展示品であり、
今の実存には力を及ぼさない。
「どうせ二人は終わりだって」と
語られるこの関係の終焉には、
未来を見据えながらも結局は
虚無へと至る人間の宿命が表現されている。
第四章 共犯者としての関係性:信頼と欺瞞の狭間で
「触れれば消える癖に吐いた
副流煙の共犯者」という表現は、
関係性が脆弱でありながらも、
相手を必要とする依存関係を示す。
ここで思い出されるのは、
ニーチェの言葉
「人間は欺かれることを望む」
という逆説である。
愛や信頼の仮面の下に潜む
欺瞞に気づきながらも、
人はその欺瞞の中に安息を見出そうとする。
この歌詞の語り手もまた、
「愛してる」と言われれば
騙されることを許したと述べ、
欺瞞と信頼の複雑な共存を浮かび上がらせている。
結論 大人になることの苦しみと快楽の同居
最後に、「大人になりたい」
という欲望と、
「雨のような女だったら
勝手に止んだのに」という諦観が語られる。
この相反する感情は、
成長することが同時に
自由の喪失でもあるという事実を示す。
カミュの『シーシュポスの神話』で
語られるように、
成長や生は果てのない労苦であり、
それでも人はその中に意味を
見出さざるを得ない。
大人になるとは、
苦しみと快楽が矛盾しながらも
同時に存在する状況を受け入れることなのだ。
この歌詞全体を通じて
浮かび上がるのは、
愛、逃避、成長というテーマの中で
揺れ動く人間の姿である。
それは「煙草」のように、
罪悪感と解放感を同時に与える存在であり、
終わりを迎えることが
分かっていながらも
その瞬間を生きようとするダンスのようなものだ。
歌詞の語り手は、
その揺蕩いの中で
現実と幻想、信頼と欺瞞の間を
漂い続ける。
自己展開がここに繰り返される。
※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。