諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
ファントムシータ
HANAGATAMI
について哲学的に考察していく。
ファントムシータ「HANAGATAMI」MV
HANAGATAMIの歌詞
黴の花にふれるようなやさしさで
尖った輪郭を愛したくなった
流れ落ちるしずくだけが
嘘を赦してここではない
どこかにつながっていた
花筐からだは囚われて
動けないこころが枯れないうちに
翔び立とう境界線の内側から
わたしはわたしの手を引いた
壊したくて壊すようなことはなく
壊したそのときに壊したくなった
演じていた昨日までが消えてなくなり
わたしだけの痛みにやっと出会えた
花筐からだは囚われて
動けないこころが枯れないうちに
翔び立とう
ここには誰もいないから
わたしはわたしの目を隠した
長い夢をみていたくらやみのなかで
蝶が舞っていた花を
ただ演じていたわたしも隣で咲いていた
目が覚めてまわりを見渡した
変わらない
いつから枯れていたのか
花びらが散らばっている
願いのかけらをひろい集めたような
花筐秘密は暴かれて
美しいめまいが消えないうちに
歩き出そう境界線の内側から
わたしはわたしの手を引いた
序論
少年と哲学者メロディウスは、
静かな森の中で
歌詞を広げながら
向き合っている。
少年はその歌詞に
隠された感情の意味を探し求め、
メロディウスは言葉を超えた
哲学的視点でその詩を
解釈しようとしていた。
HANAGATAMIの歌詞は、
一見すると個人の内面を
描いたようでありながら、
人間存在の普遍的な問いかけを
含んでいる。
二人は、愛、囚われ、自己の超越
というテーマを手がかりに、
この詩の核心に迫ろうとする。
愛の形と「尖った輪郭」
「黴の花にふれるような
やさしさで尖った輪郭を
愛したくなった」
という言葉に引っかかったんだ。
柔らかさと鋭さ、
相反するものが
一緒に描かれている。
なぜ尖ったものを
愛したくなるんだろう。
普通なら避けたいものだと
思うんだけど。
その問いには、
人が本能的に「異質なもの」に
引き寄せられる理由が
隠されている。
尖った輪郭は、傷つける
可能性を含む象徴だ。
そして、その危うさの中にこそ
生命の輝きや本質が宿ると
考えることができる。
ここでの「やさしさ」とは、
恐怖を越えて相手を
理解しようとする
行為そのものなのだろう。
じゃあ、優しさは
相手の傷や危険を
受け入れるってこと?
そうだ。
だがそれは単なる
受容ではなく、
自らの輪郭もまた
削られる覚悟を伴う。
愛とは境界線の溶解であり、
それは個としての自己が
消えるリスクも含む行為だ。
囚われと自由
「花筐からだは
囚われて動けないこころが
枯れないうちに翔び立とう」
というフレーズは、
まるで自由を
渇望しているみたいだ。
でも、花筐って何を
象徴しているんだろう?
花筐とは、美しさや
守られるべきものを
意味する反面、
その「筐(かご)」という
言葉が象徴するように、
保護と制約が同時に
存在している。
歌詞の中で
「こころが枯れないうちに」
という言葉が強調されるのは、
自由の喪失による
精神的な衰退を
危惧しているからだろう。
でも、どうして人は
そんな「筐」に
囚われるんだろう?
もっと早く飛び立てばいいのに。
人間は本能的に
安定を求める。
しかし、その安定が
自己を押し込める
檻になることもある。
歌詞の「翔び立とう」
という決意は、
囚われの安定を
捨てる勇気を表している。
それはただの解放ではなく、
新たな未知への飛躍だ。
自己超越と再生
「壊したくて壊すようなことは
なく壊したそのときに
壊したくなった」って、
すごく矛盾してるように感じる。
壊すって、
意図的な行動じゃないの?
確かに一見矛盾しているが、
ここには深い洞察がある。
壊した瞬間に
壊したくなるというのは、
自己の変化が後から
意識されるということだ。
人は時に、過去の自己を
破壊することで
新しい自己を見出す。
だが、その変化は後悔や
再評価の感情を伴うことが多い。
つまり、壊すっていう
行為そのものが
新しい自己へのきっかけ?
そうだ。
それは
「演じていた昨日までが
消えてなくなり」という
言葉にも表れている。
演じるということは
他者の期待に応える行為だが、
そこから解放されることで、
本当の自己の痛みに出会う。
そして、その痛みは
自己再生への鍵になる。
夢と現実の境界
「長い夢をみていた
くらやみのなかで
蝶が舞っていた」という部分は、
夢の中の幻想のようだけど、
どこか現実とも
繋がっている気がする。
この蝶って何を
意味しているんだろう?
蝶は、変容や再生の象徴だ。
暗闇の中で舞う蝶は、
混沌や苦しみの中で
芽生える可能性の象徴とも
言えるだろう。
そして、「花をただ演じていた
わたしも隣で咲いていた」
という部分は、
自己が夢や幻想の
一部であったことに気づく場面だ。
でも、目が覚めた後の
現実ってあまり
変わっていないんだよね。
「変わらない」と
言いながらも
「花びらが散らばっている」
って描写がある。
これは絶望なの?
いや、それは新しい
希望への準備段階だ。
花びらが散らばるのは
終わりの象徴であると同時に、
新しい生命の始まりを意味する。
ここでは、願いのかけらを
拾い集めるという行動が、
再生への一歩を暗示している。
結論
この歌詞って、
囚われた自己を超えて
自由を見つける物語なんだね。
でも、それには
壊れる痛みや、
夢と現実の間を
揺れ動く苦しみが必要になる。
その通りだ。
この歌詞の中に描かれる
「わたし」は、
何度も自己を壊し、
再生しようとする存在だ。
そしてその過程は、
人間が自己を超え、
真に自由になるための
哲学的な旅そのものだと言える。
自由って簡単に
手に入るものじゃないんだね。
でも、苦しみの中で
見つけた自由には、
本当の価値があるんだろうな。
そうだ。
そしてその価値を知ることが、
真の人間的成長と言えるだろう。
HANAGATAMIは
その旅の詩であり、
我々の生の縮図でもあるのだ。