音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】こっちのけんと/もういいよ 歌詞や怖いMV・ドアの意味を哲学的に徹底解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

こっちのけんと

もういいよ

について哲学的に考察していく。

こっちのけんと「もういいよ」MV

www.youtube.com

もういいよの歌詞

OPEN DOOR
「ひらけごま」から離れて
OPEN DOOR
閉じるまもなく
KOKORONO DOOR
わたし照らして
愛想振り撒いて
閉じる心にねえ
Тар ТарТар
Give me your 
ClapClapClap
声をあげて堪えてんだ
rat-a-tat-tat…
学校仕事You know?
無能になんの
ダーウィンどういうこと?
進化してもせんの?
前には進めんの?
僕ら知らずの
皆様の見方が少し怖いだけです
分かってんの
自分(きみ)の
「どうしたい」も
でも笑ってんの
これがいいんですよ
踊りたいね自由な空の下で
きみは大抵あの名の下で
腫れぼったいな
「もういいよ」
きみの尺・匙・価値観
「もういいよ」
だから言ってしまいなよ
「もういいよ」
わがままに
わがままに
あーTEL MAIL止めて
あの手この手で
誰かを気に留めて
わたし照らして
あーTEL MAIL止めて
あの手この手で誰がため、
人のため
わたし照らして
楽しいこと、
本能、苦悩になるのね
「Good morning」と
怖くなるんでしょ?
目が覚めちゃうの
僕ら知らずの皆様の
見方が少し怖いだけです
どうしたいの
OPEN DOOR
「ひらけごま」から離れて
OPEN DOOR
閉じるまもなく
KOKORONO DOOR
わたし照らして
腫れぼったいな
「もういいよ」
君の尺・匙・価値観
「もういいよ」
だから言ってしまいなよ
「もういいよ」
わがままに
あーTEL MAIL止めて
あの手この手で
誰かを気に留めて
わたし照らして
あーTEL MAIL止めて
あの手この手で誰がため、人のため
わたし照らして
あーTEL MAIL止めて
あの手この手で
「わたしらしく」魅せて
わたし照らして
あーTEL MAIL止めて
あの手この手で
誰がため、人のため
わたし照らして
あーやいやいやいやい
言いつけちゃえ
この世を敵にして
あーやいやいやいやい
言いつけちゃえ
この世を敵にして

序論 ドアを開けるということ

歌詞の冒頭に登場する

「OPEN DOOR」は、

単なる比喩以上に、自己を解放し、

抑圧から自由になる瞬間を象徴します。

 

この「ひらけごま」に

込められた言葉は、

アリババの物語における秘密の扉のように、

隠されていた自我の発露、

あるいは真の自由への扉を暗示しています。

 

しかし、その扉を開けることは、

自分と他者との間の不安をも

同時に解き放つ行為です。

 

ニーチェが述べたように、

「自由であることは、孤独に耐えることである」

扉の先にある自由は、必ずしも安楽なものではありません。

 

第一章 自由への抵抗:他者の視線と承認欲求

1.1 「心のドア」はなぜ閉じられるのか

「心のドア」は、

他者の期待と社会の視線に

晒される中で閉じられていきます。

 

ジャン=ポール・サルトル

「地獄とは他人である」と語り、

他者からの視線が我々の自由を奪うことを指摘しました。

 

歌詞における

「僕ら知らずの皆様の見方が

少し怖いだけです」という表現は、

他者の評価が自己の内面に影響を及ぼし、

ドアを閉ざす原因であることを示唆します。

 

1.2 他者の期待と「無能になんのダーウィン」の逆説

「学校、仕事、無能になんのダーウィン

というフレーズは、

社会における進化や成功への

プレッシャーへの皮肉です。

 

ダーウィンの進化論は

適者生存を強調しますが、

この歌詞は進化の先にある「無能」への

恐れを逆説的に示しています。

 

ここには、成長や進歩を追求しながらも、

自己の価値が他者の基準に

支配されることへの葛藤が見え隠れします。

 

第二章 自己価値観の問い:「もういいよ」という解脱の瞬間

2.1 尺・匙・価値観を超えるわがままの倫理

「もういいよ」という言葉は、

自己の判断基準を他者から切り離す宣言です。

 

これは古代ギリシャ

エピクロスが説いた

「アタラクシア(心の平静)」の境地に似ています。

 

彼は、他人の評価に

惑わされないことが

幸福の鍵であると述べました。

 

歌詞においても

「わがままに」という言葉が

繰り返されることで、

自分自身の価値観に従うことの重要性が強調されます。

 

2.2 「人のため」と「自分のため」―功利主義とエゴイズムの間で

「あの手この手で誰がため、

人のため」という表現には、

社会的な善と個人の自由との

対立が込められています。

 

ジョン・スチュアート・ミル功利主義は、

「最大多数の最大幸福」を求めますが、

歌詞はその思想に疑問を呈し、

「自分らしく生きる」ことを

優先する姿勢を示します。

 

ここには、功利主義に対する

エゴイズムの主張が感じられます。

 

第三章 テクノロジーとコミュニケーション:TELとMAILが示すもの

3.1 「わたしらしく」とは何か?―自己表現の本質

「TEL MAILを止めて」という表現は、

現代のコミュニケーション手段が

自己の本質を見えにくくしていることを示唆します。

 

マルティン・ブーバー

『我と汝』において、

真の関係は「手段」ではなく

「存在そのもの」によると述べました。

 

この歌詞における「わたしらしく」

というフレーズも、

他者のためではなく自己の存在

そのものを示す表現の試みと捉えられます。

 

3.2 他者を気に留めることの苦悩と快楽

「あの手この手で誰かを気に留めて」

という表現には、

他者との関わりの中で生じる

苦悩が暗示されています。

 

フロイトは、人間関係の中には

「快と不快」の混在があると語りました。

 

つまり、他者とのつながりは

幸福をもたらす一方で、

不安の原因ともなりうるのです。

 

結論  「世を敵にする」覚悟と真の自由

「言いつけちゃえ この世を敵にして」

というフレーズは、

自由を手にするためには

他者や社会と対立する覚悟が

必要であることを示しています。

 

これは、ニーチェ

「神は死んだ」

という宣言に通じます。

 

彼は、従来の価値観を捨て去ることで

初めて、真の自己を創造する

自由が得られると述べました。

 

歌詞における「もういいよ」

という言葉もまた、

そのような新しい価値の創造を予感させます。

 

終わりに 解放された心の旅路

「OPEN DOOR」という言葉が示すのは、

単なる扉の開閉ではなく、

自己を見つめ直し、

他者との関わりを再構築する旅路です。

 

この歌詞は、現代社会の中で

自分らしさを見失いがちな私たちに対し、

「もういいよ」という解放の言葉を贈ります。

 

ここには、哲学的な自由への問いと、

自己表現への新たな可能性が秘められているのです。