音楽に哲学を

~国境を超えた音楽哲学がそこに~

【歌詞考察】DECO*27/罪と罰feat.初音ミク この曲の意味とは?心中会議(サミット)という言葉は何を表すのか>

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

DECO*27
罪と罰feat.初音ミク

について哲学的に考察していく。


 

DECO*27「罪と罰」MV

www.youtube.com

罪と罰の歌詞

もしも君に耳があったら
この歌を聴かせてあげられるのに
もしも君に心があったら
この好きで包んであげられるのに
ねえ
嫌いになるなら僕を殺して
君に愛されない僕なんかいらない
どこにもいないいないいない
ばあ
もしもなんてどこにもなくて
きっと用意されてなんかない
「どうしよう」+「こうしよう」
+「そうしよう」=心中会議(サミット)
とは聞こえの良い自己淘汰
でもしょうがないのさ
こうでもしないと
君は僕を見ない
ねえ
嫌いになるから
僕を愛して君に愛されたい僕はいないから
どこにもいないよ
ねえ痛いよ
もしも君に耳があったら
この歌を聴かせてあげられる
もしも君に心があったら
この好きで包んであげられる
キミの耳なんていらない
キミの心だっていらない
キミがそうやって
苦しんでる顔が見れたらいいよ


 

序論

 

僕はこの歌詞を読んで
心が揺さぶられたよ。

そこに描かれているのは、
愛の欠如からくる痛みと、
それを埋めようとする
必死な葛藤じゃないかな。

君なら、この歌詞に
どんな哲学的な視点を
見出すんだろう。

少年よ、この歌詞には
愛と自己存在、
そして承認を巡る深い問いが
隠されている。

人は他者からの
愛を通じて
自分の存在意義を
見出そうとするが、
同時にその愛が得られない時、
自分を否定し、
壊そうとすらする。

それを罪と罰の形で
描いているのが、
この作品だと思う。

では、この歌詞を
章立てて深く考察してみよう。


 

愛と「もしも」という仮定の存在意義

 

歌詞の中で
「もしも君に耳があったら」
「もしも君に心があったら」
と繰り返されている。

これは何かを
願うようでいて、
実は無力感の表現だよね。

相手に何かを求めるけれど、
結局その条件が
整わないことを知っている。

この「もしも」は
どんな意味を持つんだろう。

「もしも」とは、
可能性の追求でありながら、
同時に現実の否定だ。

人間は「もしも」を
思考することで、
理想を描く。

しかし、その理想に
現実が追いつかないとき、
深い喪失感が生まれる。

この歌詞の主人公は、
「もしも」の仮定を通じて、
相手とのつながりを
願っているが、
その願いが届かないことを
すでに知っている。

これは愛の欠如
そのものを描写していると言える。

 

なるほど。
「もしも」が描き出すのは
希望じゃなくて、
絶望なんだね。

だからこそ、
「耳」も「心」もない
相手にどうしようもない
気持ちを抱えているのか。


 

愛と否定の循環

 

「嫌いになるなら僕を殺して」
「君に愛されない僕なんかいらない」
という部分は、
愛されることが
存在意義の全てだと
言わんばかりだよね。

でも、それは少し
怖い考え方にも思える。

ここには、
愛が持つ両義性が
描かれている。

愛は癒しや救いとなるが、
同時にそれが
得られない場合、
人を破壊へと導く。

この主人公は、
愛されない自分を
無価値だとみなすことで、
自己否定を繰り返している。

興味深いのは、
愛されることを望む一方で
「君」に対する攻撃性も
秘めていることだ。

これは「罰」を
与えることで罪を共有し、
孤独から逃れようとする
心理と言える。

 

罪を共有する
っていうのは、
どういうこと?

簡単に言えば、
「君」もまた自分と同じ痛みを
感じてほしい、
という願いだろう。

それは
「苦しんでる顔が
見れたらいいよ」
という歌詞にも現れている。

自分だけが痛むのではなく、
相手も痛みを感じることで、
二人の間に何かしらの
つながりを作ろうとする。

これもまた、
愛の歪んだ形の一つだ。


 

自己淘汰と存在意義の喪失

 

「心中会議(サミット)」
という表現が独特だよね。

自分の中で結論を
出しているように見えるけど、
その結論が「自己淘汰」、
つまり自分を消し去る方向に
向かっているのが悲しい。

この「心中会議」という
言葉には、
哲学的な問いが含まれている。

それは、自己存在に
価値があるのかという問いだ。

主人公にとって、
愛されない自分は価値がない。

だからこそ、
存在そのものを
否定しようとする。

しかし、

それを「心中」という
形で表現することで、
そこには相手との関係性を
求める最後の執着が見える。

自己否定でさえも、
他者とのつながりを
求める手段となるのだ。

 

つまり、完全に一人で
消えたいわけじゃなくて、
誰かと共に痛みを
共有したいということ?

その通りだ。
それが「自己淘汰」で
ありながら、
同時に「他者との関係性の模索」
でもある。

この矛盾が歌詞全体を
通じて描かれる
葛藤の核心だ。


 

結論

 

最終的に、
この歌詞が
伝えたいことは何だろう?

痛みや絶望だけが
残るように見えるけど、
それで終わりなのかな。

この歌詞は、
一見すると愛の不在と
絶望だけを
描いているように思える。

しかし、その裏には
愛を渇望する
人間の切実な願いがある。

人は他者との
つながりを求め、
孤独を克服しようとする存在だ。

この主人公もまた、
その一環として
自らの痛みを語り、
相手に届くことを望んでいる。

たとえ歪んだ形であっても、
それは確かに愛の表現なのだ。

だからこそ、
この歌詞が痛々しくも
人間的で、心に響くのだろう。