諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
すりぃ
救ってくれない
について哲学的に考察していく。
すりぃ「救ってくれない」MV
救ってくれないの歌詞
HELP ME
HELP ME HELP
HELP ME
HELP ME HELP
あなたは言う側で愛を一時のカイロのように
胸の奥壁の中で泣きじゃくるガキの僕は
嗚呼
初めから信じないの
悲しい過去傷を抉る
赤いベリーがダラダラとまるで
膿を絞るように
HELP ME
HELP ME HELP
HELP ME
嘘がバレてく段々々
HELP ME
HELP ME HELP
HELP ME
答えて
誰も救ってくれない
救ってくれない
空っぽで祈った
分かり合えないことだけなら
わかる気がしているんだ
誰も救ってくれない
救ってくれない
孤独が今
心地よいだろ
ひとりぼっちが
僕を包み込んでく
踊るダンスダンスダンス
退廃わざと落っこちて
破滅衝動さえも歓迎です
モチベ足んない何を待っている?
自暴自棄時期のルーティン
頼してる負け
騙されるだけ
マジで僕を救って女神さま
そんな奴じゃないと思い込んで
押し付けんな
人が人を変えられる
とじ込んだ罰だ
誰も救ってやれない
救ってやれない
虚しさで悟った
僕はただただ火を灯すだけ
鏡に歌えよミュージック
誰も救ってやれない
救ってやれない
貴方が今
傷を持ってる
鈍く光ってる
やがて惹かれ合うのよ
だけど123
HELP ME
HELP ME HELP
HELP ME
また沈んでく簡単に
HELP ME
HELP ME HELP
HELP ME
亀のように引っ込んで
HELP ME
HELP ME HELP
HELP ME
ただ繰り返す散々に
HELP ME
HELP ME HELP
HELP ME
答えて
誰も救ってくれない
救ってくれない
空っぽで祈った
分かり合えないことだけなら
わかる気がしているんだ
誰も救ってくれない
救ってくれない
孤独が今
心地よいだろ
ひとりぼっちが
僕を包み込んでる
嗚呼
その隠した痛みを抱いて
胸に刺した言葉紡いで
孤独に舞った僕を見つめる
(見つける)
ここに立って息を繋いで
ただ光った星のように
絶望が僕たちの歌になって花咲く
序論
この歌は、
一人で叫んでいるようで
ありながら、
どこかで誰かに
届いてほしいと
願っているように感じる。
HELP MEという言葉が
繰り返されるけれど、
それに対する答えはなく、
孤独が染み込んでいくような
感覚が伝わってくる。
これをどう
解釈すればいいんだろう。
少年よ、この歌詞は
孤独と自己認識の狭間で
揺れる心の詩といえるだろう。
HELP MEという叫びは、
表面的には救済を
求める声だが、
実際にはその裏に
「誰も救えない」という
絶望が隠されている。
この矛盾の中に
人間の本質が浮かび上がるのだ。
救いと孤独の矛盾
誰も救ってくれないという
言葉が繰り返される中で、
「孤独が心地よい」という
逆説が描かれている。
救いを求めているのに、
その答えが
見つからないからこそ、
孤独に安住しているようにも見える。
これは、人が本当に
他者に救われることなんて
ないということなのかな。
その通りだ。
そして、
この「孤独が心地よい」
という感覚は、
一種の諦念でもある。
人は他者との共感や
理解を求めるが、
完全に理解し合えることはない。
だからこそ、
孤独を受け入れるしかない
瞬間が訪れる。
この矛盾を抱えながら
人は存在するのだ。
でも、それじゃあ
救いを求める意味は
あるのかな。
最初から諦めていた方が
楽なんじゃないか。
それは違う。
求めること自体に
価値があるのだ。
人は求め続けることで
自己を見つめ直し、
成長する。
救いが訪れるか
どうかではなく、
その過程こそが
人生の本質だ。
この歌の主人公も、
救いが得られないと
知りながら、
叫び続けている。
そこに人間の強さがある。
傷と再生
「胸の奥壁の中で
泣きじゃくるガキの僕は」
という表現が印象的だ。
大人になっても
心の中に泣きじゃくる
子どもがいるのは、
何かに傷ついたから
なんだろうか。
それとも、
ただ弱いだけなのかな。
傷つくということは、
生きる上で
避けられないことだ。
特に、この歌詞の中では
「赤いベリーが
ダラダラとまるで
膿を絞るように」
という表現が、
傷を抉る行為を象徴している。
これは痛みを伴うが、
その痛みが自分を
見つめ直す契機ともなる。
傷は弱さの証ではなく、
人間としての証明でもあるのだ。
でも、その傷が
癒えなかったら
どうするんだろう。
ずっと膿み続けるだけなら、
生きる意味なんて
見出せないんじゃないかな。
確かに、
傷が癒えることはない
場合もある。
しかし、
癒えない傷であっても、
それを抱えて
生きることは可能だ。
そして、その傷がやがて
「光る」と歌詞にもあるように、
それが人間の深みや
魅力を生み出す。
傷そのものが再生の
きっかけとなりうるのだ。
孤独と救済の本質
「孤独が今心地よいだろ」
という言葉が響く。
孤独に包まれることが
救いになる場合もある
ってことかな。
でも、それは本当に
救いと言えるのかな。
孤独は救いではないが、
救いの前提条件になりうる。
人は孤独の中で自己を
深く見つめることができる。
そして、その中で
得られる自己理解が、
他者との繋がりを
可能にするのだ。
この歌の主人公も、
孤独を抱えながら
他者との絆を
模索しているように見える。
だけど、
「誰も救えない」
と繰り返される
歌詞を見ると、
その可能性すら
否定されているように思える。
否定されているように
見えるが、
これは挑戦とも解釈できる。
救いがないと知りつつも、
それでもなお人は
「答え」を求め続ける。
だからこそ、
「絶望が僕たちの
歌になって花咲く」
という一節が重要だ。
絶望そのものが
新たな希望や意味を
生み出す可能性を
示唆しているのだ。
結論
つまり、この歌は救いを
求める絶望的な
叫びでありながら、
その中に希望を
秘めているということか。
孤独や傷と向き合うことで、
人は新たな意味を
見出せるのかもしれない。
その通りだ。
この歌の本質は、
救済が得られないという
絶望の中で、
人間がいかに生きるべきかを
問いかけている。
救いがなくても
人は生き続け、
叫び続ける。
その中で、孤独や傷が
新たな光となり、
自己を包み込むようになるのだ。
この歌詞は、その矛盾を
見事に表現している。
それが「HELP ME」と
繰り返す叫びの意味なんだね。
絶望の中で叫ぶことで、
自分自身を救う
可能性を探しているんだ。
そうだ。
そして、その叫びが
他者に届くか
どうかは問題ではない。
叫びそのものが、
生きる証であり、
未来への一歩となるのだ。
この歌詞が語る孤独と
救いの哲学は、
まさに生きること
そのものを描いているのだよ。