諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
について哲学的に考察していく。
平井大「片隅のファンタジー」MV
片隅のファンタジーの歌詞
世界一の幸せ?
それがどんなモノかなんて
小さな街の僕には
わからないや
ホンモノのアイのカタチ?
生きる理由や
そのあとも僕は
神様じゃないから
たぶん知らないや
それでも眠りにつく前の
顔みてるだけで
「これがいい」と想える、
今日がある。
あなたを想う気持ちなら
きっと世界中の
誰にだって負けない
眠る笑った横顔
守るために僕は
"ここにいる”
こんな小さな街の
片隅の噺さ
片隅のファンタジーさ
はてどんなもんだろ?
あとどれくらいの時が
僕たちに残されてるか
なんてわからないけど
一つわかってるのは
あなたより1秒でも
長く生きなきゃ
寂しがり屋が
この世に一人増えるってこと
こう見えても
眠りにつく前に
「守り抜く」だとか
ヒーローみたいに誓う、
僕がいる。
あなたを想う気持ちなら
きっと神様にだって負けない
拗ねる怒った横顔すら
愛しいんだ全部
"アイシテル”
こんな小さな街の
片隅のタワゴトさ
あなたを想う気持ちなら
きっと世界中の
誰にだって負けない
眠る笑った横顔守るために
僕は”ここにいる”
こんな小さな街の
片隅の噺さ
片隅のファンタジーさ
序論
少年:
メロディウス、
この歌詞を読んでみたけど、
「幸せ」や「愛」というものが、
すごくシンプルな言葉なのに、
実際にはとても複雑だと思うんだ。
この歌詞、
どうやら日常の中で
感じるささやかな喜びを
描いているように思うけど
それが「世界一の幸せ」だなんて、
そんなことって本当にあるのかな?
メロディウス:
それは良い問いだ、少年。
この歌詞は「大きな幸せ」や
「普遍的な愛」ではなく、
「小さな街の片隅」で
生きる一個人の視点から語られている。
それゆえ、哲学的には、
「普遍的な真実」ではなく、
「主観的な真実」を
問いかけていると言えるだろう。
まず、この歌詞を通じて、
「幸せ」や「愛」が
どのように定義され、
どのように表現されているか
考えていこうではないか。
第1章 世界一の幸せとは何か?
少年:
「世界一の幸せ」っていうけど、
歌詞の中では、
「小さな街の僕にはわからないや」
って言ってるよね。
確かに、僕も「幸せ」って何なのか、
具体的には答えられない気がするよ。
これって、ただ感じるものなのかな?
メロディウス:
興味深い視点だな。
哲学では、「幸福」とは
しばしば主観的な感覚として捉えられる。
「エウダイモニア(幸福)」という
概念を思い出してみよう。
彼は幸福を
「善き生き方」
と関連付けたが、
それは普遍的な理想ではなく、
個人の生きる文脈に応じたものだ。
この歌詞の「世界一の幸せ」という言葉は、
主観的な満足感に焦点を当てている。
つまり、この歌詞における
「幸せ」は、他者と比較して
計測されるものではなく
自分自身がそれをどう感じるかに
基づいているのだ。
少年:
そう考えると、
「わからないや」って
言ってるのも納得だね。
「わからない」けど、
「今日がある」って
歌詞にあるように、
今の瞬間を感じ取ることが
幸せそのものなのかも。
第2章 愛のかたちとその不確かさ
少年:
次に、「ホンモノのアイのカタチ?」
って歌詞があるけど、
「愛」って何なんだろう?
答えがあるようで、
ないような気がするんだ。
メロディウス:
「愛」は哲学の中でも
最も議論されてきたテーマの一つだ。
プラトンの『饗宴』では、
「エロス(情熱的な愛)」から
「アガペー(無償の愛)」へと
昇華するプロセスが語られる。
だが、この歌詞では、
愛の定義を追い求めるのではなく、
「そのあとも僕は
神様じゃないからたぶん知らないや」と、
知らないことを受け入れている。
それが重要なのだ。
愛とは、理屈で解明するものではなく、
経験として感じるものであり、
その形は一つではないと
歌詞は暗示しているのだろう。
少年:
だからこそ、
「眠りにつく前の顔を見ているだけで、
『これがいい』と思える今日がある」
って歌詞が生まれるんだね。
愛を証明する必要なんてない、
ただそこにあるだけでいいってことなのかな。
メロディウス:
その通りだ、少年。
これはいわば「存在としての愛」だ。
大きな理想や永遠性を語るのではなく、
目の前の一瞬に宿る愛を尊ぶ。
この姿勢こそ、歌詞の核心ではないだろうか。
第3章 生きる理由と死への意識
少年:
歌詞の中に
「あとどれくらいの時が
僕たちに残されてるかなんてわからないけど」
っていう部分があって、
ちょっと考えさせられたんだ。
僕たちはいつか必ず終わりを迎えるけど、
その「終わり」にどう向き合うべきなんだろう?
メロディウス:
素晴らしい問いだ、少年。
哲学者ハイデガーは、
「死への存在」を語り、
人間が有限であることを自覚することで、
初めて真に生きる意味を見出せると述べた。
この歌詞でも、
「あなたより1秒でも長く生きなきゃ」
という意識が示されている。
これは単なる自己犠牲ではなく、
自分の生を相手との
関係性の中で考える行為だ。
このような関係性が、
生きる理由を与えるのではないだろうか。
少年:
「寂しがり屋が
この世に一人増えるってこと」って、
ちょっとユーモラスだけど深いよね。
誰かのために生きることが、
結局は自分の生きる理由にも
なるのかもしれない。
第4章 日常の中の英雄性
少年:
「守り抜く」とか
「ヒーローみたいに誓う」っていう
言葉も出てくるけど、
これはどう解釈すればいいんだろう?
普通の人でもヒーローになれるってこと?
メロディウス:
確かにそのように読めるが、
もっと深い意味があるかもしれない。
ここでの「ヒーロー」とは、
壮大な冒険や戦いをする存在ではなく、
日常の中で小さな誓いを立て、
行動に移す人間のことを指しているのだろう。
キルケゴールの「倫理的人間像」を
思い出してほしい。
彼は、日常的な選択や行為こそが
人間の本質を決定すると述べた。
この歌詞の語り手も、
自分にできる範囲で愛する人を
守るという選択をし、
その行為を通じて
小さな英雄になっているのだ。
少年:
だから「片隅の噺さ」
「片隅のファンタジーさ」っていう
表現なんだね。
大げさじゃないけど、
だからこそ特別なんだ。
結論
少年:
この歌詞を通じて、
「幸せ」や「愛」っていうのは、
結局、答えを探すものじゃなくて、
ただ感じるものなんだなって思ったよ。
そして、それが小さなことでも、
自分にとっての「世界一」に
なることもあるんだね。
メロディウス:
その通りだ、少年。
この歌詞は、日常の中にある
小さな瞬間を掘り下げ、
それを普遍的なテーマに昇華している。
その中で描かれる「幸せ」や「愛」は、
偉大な理想や高尚な定義ではなく、
目の前の人や瞬間に
向き合うことで見出される。
哲学は、こうした日常の中に
潜む深い意味を探求する営みだ。
そして、この歌詞はその営みを
詩的に表現した一つの答えとも言えるだろう。