諸君、ごきげんよう。
我は音楽を哲学的に考え思考する
メロディウスである。
今回は
について哲学的に考察していく。
ピノキオピー「僕なんかいなくても」MV
僕なんかいなくてもの歌詞
大切な花を踏みにじられた
報復が怖いから目を逸らす
いくじなしの僕は蟻の巣の中
じっと不幸が過ぎ去るのを
待つだんだんだんだん
心が濁る
だんだんだんだん
心が濁る
僕にはこの世界を
変えられないような
気がしている
みんなあの子の陰口を言うけど
こっそり 本の貸し借りをしてる
銃口向けられ 踏み絵を踏まされ
歯を食いしばり「ウザいね」と
笑うだんだんだんだん
心が腐るだんだんだんだん
心が腐る
僕にはこの世界を
変えられないような
気がしている
零度の雨期待の火が
消えるこんな奴じゃ
何も叶わないよ
こんな奴じゃ君に愛されないよ
うるせえ
弱虫でも生きていくんだよ
透明な僕にも何か出来るだろ
世界は憎らしく我関せず回る
僕なんかいなくても
止まない争いに
シューティングスターを
優しい人に一縷の幸せを
無慈悲な悲喜劇は続く
僕なんかいなくてもそれでも
やらなくちゃ
それでも
やらなくちゃ
それでも
青春捧げて手にした
メダルをあの人に
2、3秒で奪われ
星の数ほどいる主役の群れに
押し潰されてやがて
貝になるだんだんだんだん
心が終わるだんだんだんだん
心が終わる
僕なんかいてもいなくても
同じような気がしている
「夢」も「詐欺」も
同じ顔してる信じる者は
みんな救われるの
信じきれない
僕は救われないの?
知らねえよ
まだ心臓は動いてんだよ
敗戦続きの出来レース
何年目だろう
息絶えたその後も陽は昇る
僕なんかいなくても
それでもやらなくちゃ
それでも自分に嫌われても
だんだんだんだん
命が光るだんだんだんだん
命が光る泥にまみれても
思い過ごしでも
キラキラキラキラキラキラ光る
「悪い夢は終わる」
綺麗事にすがる
すべて無意味だとしても
うるせえ
弱虫でも生きていくんだよ
透明な僕にも何か出来るだろ
世界は憎らしく我関せず回る
僕なんかいなくても
止まない争いに
シューティングスターを
優しい人には
どうかめいっぱいの幸せを
叶わないと分かっていても
この世界が終わっていても
僕なんかいなくても
それでもやらなくちゃ
それでもやらなくちゃ
それでも僕なんかいなくても
それでも
序論
少年:
メロディウス、
この歌詞を読んで感じるのは、
透明な存在としての「僕」が
抱える自己否定と、
それでも立ち向かおうとする矛盾だよ。
何もできないと感じつつも、
「やらなくちゃ」という
言葉に込められた葛藤がすごく強い。
僕たちが生きるこの世界で、
どうしてこのような感情に
引き寄せられるんだろう?
メロディウス:
少年よ、この歌詞には
「存在の意味」という
哲学的テーマが浮かび上がっている。
自分の価値を見いだせず、
「僕なんかいなくても」と
感じる瞬間は誰しも経験するものだ。
だが、注目すべきはその後の
「それでもやらなくちゃ」という決意だ。
この矛盾の中に、現代の人々が
直面する存在意義の探求が隠されている。
第1章 自己否定と他者からの視線
少年:
「大切な花を踏みにじられた」
「みんなあの子の陰口を言うけど」など、
歌詞の中では他者による
暴力や嘲笑が描かれているね。
その中で「僕」は無力感を覚え、
蟻の巣の中に隠れる。
でも、この行動は正しいのかな?
見て見ぬふりをしてしまうことって。
メロディウス:
他者の行動に対して
目を逸らすのは、
自己保存の本能だ。
ニーチェは「生の意志」
という概念で、
生き残るために他者と
距離を置くことの必然性を説いている。
だが、この行動が続けば
「だんだん心が濁る」と
歌詞にあるように、
精神の腐敗を招く。
無力感は自己否定を生み、
やがて「僕にはこの世界を変えられない」
という結論に達するのだ。
少年:
でも、心が腐っても、
その中で「歯を食いしばり笑う」
姿が出てくるのが興味深い。
嘘でも笑うことで
自分を守ろうとしているのかも。
人って、本当に辛い時に
逆に笑ったりするよね?
メロディウス:
その通りだ。
人間は自由の重荷に
耐えつつ自らの行動を選び続ける。
ここで「笑う」という行動は、
たとえそれが虚勢であっても、
己の存在を示そうとする
小さな抵抗だ。
この偽りの笑顔にも、
生き抜く意志が宿っている。
第2章 無力感とそれでも前を向く意志
少年:
「零度の雨」
「期待の火が消える」って、
すごく絶望的な表現だよね。
それでも
「うるせえ、弱虫でも生きていくんだよ」
と叫ぶ言葉に、
強い意志を感じる。
何が人を絶望の中でも
立ち上がらせるんだろう?
メロディウス:
この叫びは、
ハイデガーの「被投性」と関連している。
人間は無意味にも見える世界に
「投げ出された」存在だ。
しかし、その中でも
「生きていく」という意志は、
世界に対する根源的な挑戦だ。
歌詞では
「透明な僕にも何か出来るだろ」
と続くが、
この透明さは自己の希薄さを
意味すると同時に、
可能性の象徴でもある。
少年:
透明って、
弱いだけじゃなくて、
新しい色を吸収できる
可能性もあるんだね。
だから、
「シューティングスター」や
「優しい人に幸せを」という
願いが生まれるのかも。
メロディウス:
そうだ。
個としての自分が
消え去りそうな中でも、
他者を思いやる願いが湧き出るのは、
人間が社会的存在である証拠だ。
この「透明な存在」である「僕」は、
自分を犠牲にしてでも
世界に希望を与えようとする
姿を見せている。
カントの「道徳法則」のように、
自分が消えてもなお、
他者への善を願う姿だ。
第3章 自己否定から自己受容へ
少年:
でも、「僕なんかいてもいなくても同じ」
という歌詞が再び出てきて、
また自己否定に戻っている感じがする。
でもその後に、
「それでもやらなくちゃ」と
何度も繰り返す。
この繰り返しには、
どういう意味があるんだろう?
メロディウス:
この繰り返しは、
存在の確認作業だ。
キルケゴールが説いた「絶望」も、
自己との対話の一環であり、
それを乗り越えた時に
初めて自己受容が生まれる。
歌詞の中で「だんだん命が光る」と
変化していくように、
自己否定を繰り返しながらも、
少しずつ新たな意味を見出している。
少年:
だから最後に、
「泥にまみれても、
思い過ごしでも、
キラキラ光る」と
希望を示しているんだね。
どんなに無力でも、
「生きること」に意味を見出すんだ。
メロディウス:
その通り。
たとえ「すべて無意味だとしても」、
それでも行動を続ける。
この歌詞が伝えるのは、
意味を失った時こそ、
人間が意味を創造する力を
発揮する瞬間だ。
生きることそのものが、
価値を生むのだ。
結論
少年:
メロディウス、
この歌詞を通じて分かったのは、
「僕」は無力で透明な存在に見えても、
その中にこそ強さがあるってことだ。
メロディウス:
そうだ、少年。
この歌詞の核心は、
「存在の不安」と
「それでも生きようとする意志」の対立だ。
そして、この対立の中にこそ、
人間の本質が見える。
生きることは矛盾の連続だが、
その矛盾の中で人は輝く。
この歌詞は、現代を生きる
我々への哲学的なメッセージだと
言えるだろう。