音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【歌詞考察】京本大我/Blue night この曲の意味とは?恋愛における不安と好きという感情を哲学的に徹底解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

京本大我
Blue night

について哲学的に考察していく。


 

京本大我「Blue night」MV

www.youtube.com


Blue nightの歌詞

平然としてた筈の君は
この胸の中で
la la la la love
快楽の先に映る恐怖
見て見ぬフリしてく
la la la la lie
過ちと分かっていて
堕ちてゆく二人
感情は蒼く紅く
寂しさを埋める為だけじゃないと
互いに言い聞かせながら
絡め合う心は汗ばんでゆく
答えも出せないまま
明日を奪われても
何か見失っても
その温もりに包まれて
果てたい
恥じらうことすら忘れる程
その瞳の奥吸い込まれてしまうよ
誰かの放った言葉、
表情読み取ることも面倒で
全て線引いた過去とbye
曖昧だと分かってても
貴方だけが欲しい
愛情は脆く深く
優しさは僕の為だけじゃないと
自分に言い聞かせながら
絡み付く煩悩でまみれてゆく
唇に触れたまま
流されてゆくように
惹かれ合った意味があるのなら
それだけで、それだけを
信じて守ってゆく
寂しさを埋める為だけじゃないと
互いに言い聞かせながら
絡め合う心は汗ばんでゆく
答えも出せないまま
明日を奪われても
何か見失っても
その温もりに包まれて

生きたい

 

Blue nightの考察

夜の静寂の中、

少年は悩みながら

メロディウスのもとを訪れる。

 

彼が心を乱されているのは、

京本大我の『Blue night』という

曲の歌詞についてであった。

 

この詩の中で描かれる愛や

恐怖、快楽と後悔の交錯に対して、

答えを見つけ出そうとしていた。


 

少年:
メロディウス先生この歌詞を読むと、

なんだか複雑な感情が心の中で渦巻くんです。

 

「快楽の先に映る恐怖」や

「見て見ぬフリしてくla la la la lie」

といった言葉が印象的で、

愛が生み出す感情には

純粋さだけではなく、

何か暗いものも含まれている気がします。

 

どうして人はそんな危険なものに

惹かれてしまうのでしょう?

 

メロディウス:
それは、人間が持つ「二重性」に

関わる問題だね。

 

愛と恐怖、快楽と罪悪感—

これらの要素は対極にあるようで、

実は人間の心の奥底で深く結びついている。

 

プラトン

『饗宴』で言及した「エロース」、

つまり愛への欲望は、

しばしば私たちを超越的な体験へと誘う。

 

しかし、その過程では、

しばしば我々を理性を失わせる

「恐怖」も伴うんだ。

 

愛は美しいものだが、

同時に人間の脆さや弱さも露わにする。

 

少年:
確かに、愛には温かさだけではなく、

どこか破滅的な側面もある気がします。

 

「過ちと分かっていて堕ちてゆく二人」

とあるように、

自分でも危険だと分かっているのに、

それでも愛に身を委ねるような

気持ちがあるのかもしれません。

 

でも、どうしてそうまでして

人は愛に惹かれるのでしょうか?

 

メロディウス:
それは「孤独」という

人間の根本的な性質に

関わっているのかもしれない。

 

デカルト

我思う、ゆえに我あり」と言ったが、

その自己認識の裏には

常に孤独がつきまとう。

 

人は愛を通して、

自らの孤独を埋めようとする。

 

しかし、愛することで

孤独から解放される一方で、

その関係の中で生まれる

不安や不確実さも

また新たな恐怖を生み出すんだ。

 

この「快楽の先に映る恐怖」は、

愛の本質を映し出していると言えるかもしれないね。


 

少年:
なるほど…

「寂しさを埋める為だけじゃないと

互いに言い聞かせながら」

という部分もありますよね。

 

二人はただ寂しさを

埋めるだけではないと

信じたいと思っているけれど、

それでも完全には

信じきれないのかなと感じます。

 

メロディウス:
その通りだ。

 

サルトル

「他者は地獄である」と

述べたように、

他者との関係は決して単純ではない。

 

他者を完全に理解することは

できないという前提の上に、

我々は関係を築く。

 

だが、それでも人は、

他者に愛を求め、

その愛に意味を見出そうとする。

 

『Blue night』の二人も、

お互いの存在が不確かであると知りつつも、

その不確実な関係に救いを

求めているように感じられるね。

 

少年:
「答えも出せないまま、

明日を奪われても何か見失っても、

その温もりに包まれて果てたい」

という部分も、

まるでその不確実性を

受け入れているように聞こえますね。

 

メロディウス:
そうだ。

愛とは、確かな答えがないままに

その問いを抱え続ける

行為なのかもしれない。

 

愛において、

私たちはしばしば自己を失い、

不安定さの中で揺れ動く。

 

それでも、その不安定さの中で

相手と共にいることを選ぶ、

それが愛の一つの形だ。

 

ここでカミュが「不条理」として

述べたものと似ている。

 

不確かで、どこか不可解なものを

受け入れつつも、

その温もりに身を委ねて生きる力を見つけるのだ。


 

少年:
では、この歌詞の中で語られる愛は、

理性では測りきれない、

何かもっと本能的なものだと

言えるのでしょうか?

 

メロディウス:
その可能性はあるね。

 

歌詞に登場する

「絡め合う心」や「絡み付く煩悩」は、

理性よりも本能に

近い部分を描写している。

 

仏教でいう「煩悩」とは、

欲望や執着から生まれる苦しみを指すが、

愛すること自体もまた

一種の煩悩と言えるだろう。

 

愛は人を高揚させ、

同時に執着と苦しみも生む。

 

このような矛盾を抱えた愛があるからこそ、

人は愛を通して深く自己を

見つめることができるんだ。

 

少年:
「曖昧だと分かってても

『貴方だけ』が欲しい」という部分も、

この曖昧さを受け入れつつも、

相手を求め続ける気持ちが

表れているようですね。

 

不確かなものに惹かれるのも、

人間らしいのでしょうか?

 

メロディウス:
まさに。

完全に分かり合えない関係においても、

相手に愛を求める行為は非常に人間的だ。

 

ドストエフスキー

カラマーゾフの兄弟』で

「愛は一種の奇跡である」と述べているように、

愛とはどこか奇跡的で、

不可解なものだ。

 

たとえその愛が曖昧で、

確かな形を持たないものであっても、

人はその奇跡にすがることで

生きる意味を見出すのだろう。

 

少年:
歌詞の最後では

「生きたい」と書かれていますね。

 

この愛の温もりが、

人生そのものの意味と

繋がっているように感じます。


 

メロディウス:
そうだね。

 

この「生きたい」という言葉は、

愛の中で揺れ動きながらも、

最終的にそこに自分の存在意義を

見出そうとする叫びにも聞こえる。

 

人生そのものが不確実なものであるように、

愛もまた完全に理解されることのない謎だ。

 

しかし、その謎に身を委ね、

相手と共に存在することにより、

我々は生きる力を得るのかもしれない。

 

少年よ、この曲は、

まさにその謎の中にある

愛の美しさと恐ろしさを描いているんだ。