音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【歌詞考察】中島健人/ピカレスク 自身が作詞のリード曲の意味を哲学的に徹底解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

中島健人
ピカレスク

について哲学的に考察していく。


 

中島健人ピカレスク」MV

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ピカレスクの歌詞

錆びついた言葉の列挙
噛みつかれた牙のヘイト
日には目を歯には
歯をただ毒には毒は使わない
それもWhy? 竜頭蛇尾
勘違いした他者のPARTY
チッと舌打ち払独でもいい
リアルをわからせてく I'm Bad?
影を追い続けてくる
サイレンに走れば
この道はもう止まれない
暴走 想像 構造妄想キリがない
放送闘争 どうぞ
相当能動堂々 口頭意味のない
応答 上等どうぞ
愛が朽ち果てても相でありたい
銃口向け悪と言われる夜さえも
ジョーカーの眼から堕ちる
黒い涙と笑みは
嘘かわかるでしょ
ボロボロになったただ1人
闇の中埋められていく
あの日の感情 盤上に並ぶ惨状
作り上げられた裸の王と
気づけ大衆の所為・偽
言葉で軽々 正義?
光見上げ滲む望み
赤い月に捧ぐ僕の礼儀
終われない 
神様どうかなんて言わない
これはアクマでも序章
暴走 想像構造妄想キリがない
放送闘争 どうぞ
相当能動堂々口頭意味のない
応 上等どうぞ
愛が朽ち果てても相でありたい
銃口向け悪と言われる夜さえも
ジョーカーの眼から堕ちる 
黒い涙と笑みは
嘘かわかるでしょ
愛が朽ち果てても相でありたい
銃口向け悪と言われる夜さえも
ジョーカーの眼から
堕ちる黒い涙と笑みは嘘
かわかるでしょ
叶わないことはわかっていた
一生足掻いて 
もがいて孤独を
照らすの未来で
笑っているのは
それが誰かわかるでしょ
嘘をわかってよ

 

序章 ピカレスクの美学と倫理

ピカレスク(悪漢小説)は、

道徳の外に位置する存在が語る物語である。

 

本歌詞においても、

道徳的な規範に捉われない

一人の主人公が、

銃口向け悪」と呼ばれる夜を駆け抜ける。

 

ここに見出されるのは、

善と悪の二元論を超えた倫理の問いである。

 

ニーチェ

「人間の偉大さとは、

橋を架ける者であり、

目的地でなく過程にこそある」

(『ツァラトゥストラ』)と述べた。

 

善悪の境界を超え、

夜を駆ける行為そのものが

この歌詞の核心であろう。


 

第1章 「竜頭蛇尾」とは何か – 行為と結果の非対称性

竜頭蛇尾」は、

壮大な始まりに対して終わりが

尻すぼみになることを意味する。

 

だが、本歌詞の

「Why? 竜頭蛇尾」という問いは、

必ずしも失敗の意味を持たない。

 

むしろ、行為の中で

結果が必然的に予測不可能になることを

示しているのだろう。

 

ハイデガー

「存在とは未完成のうちにあり続ける」

(『存在と時間』)と語ったように、

すべての行為は終わりの

予測不能性を孕んでいる。

 

それゆえ、

「毒には毒を使わない」という

選択が合理性ではなく、

倫理的挑戦であることが理解できる。

 

第2章 正義と悪の曖昧性 – ジョーカーの眼からの涙と笑み

「ジョーカーの眼から堕ちる

黒い涙と笑みは嘘かわかるでしょ」

というフレーズは、

善悪の二分法を相対化している。

 

ジョーカーは社会から

逸脱した存在でありながら、

彼の涙も笑みも偽りである

可能性が示唆される。

 

フリードリヒ・ニーチェ

「道徳とは社会が強者を抑圧するために

創り出した幻想である」と批判した。

 

この歌詞においても、

涙と笑みが同時に現れることは、

感情や道徳の二面性を暴露している。

 

第3章 闘争の構造 – 想像と妄想の果てなき循環

歌詞には「暴走 想像 構造 妄想 キリがない」

というフレーズが登場する。

これは、現実と虚構、

計画と暴走が無限に

循環する様を表しているだろう。

 

デリダの「脱構築」という概念に従えば、

いかなる構造も固定的ではなく、

それ自体が常に解体され、新たな意味を生む。

 

この無限の循環の中において、

歌詞の主人公は「どうぞ」と言い放ち、

自己の能動性を示している。

 

第4章 孤独と未来 – 「誰が笑うのか」を巡る存在論

「叶わないことはわかっていた

一生足掻いて もがいて孤独を照らすの」

という一節は、

存在の孤独を強調する。

 

サルトル

「人間は自由を

宣告された囚人である」

(『存在と無』)と述べ、

存在することが自由であるがゆえに

孤独であることを示した。

 

歌詞の主人公もまた、

未来の笑みを求めて足掻きながら、

その孤独を受け入れている。


 

結論 偽りと真実の交錯 – 錆びついた言葉の行方

「錆びついた言葉」は、

時が経つことで

その意味を失った言葉を象徴している。

 

だが、こうした言葉の列挙こそが、

歌詞全体における闘争の一部である。

 

「言葉で軽々 正義?」という問いは、

言葉が時に暴力となりうることを示唆する。

 

ラカン

「言葉は他者を支配するための道具である」

と語ったが、この歌詞においても、

正義の名のもとに行われる支配が批判されている。

 

最終的に、

「嘘をわかってよ」という叫びにおいて

真実と偽りは交錯し、境界が曖昧になる。

 

これは、近代の形而上学的な

真理の探求を拒絶し

「アクマでも序章」であることを示す。

 

この物語においては、

結末は存在せず、闘争と探索の

果てなき過程こそが主人公の存在意義なのである。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。