音楽に哲学を

~日本のみならず国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】ずっと真夜中でいいのに。/グズリ念 現代の虚無と孤独を表した歌詞の意味を哲学的に徹底解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

ずっと真夜中でいいのに。
グズリ念

について哲学的に考察していく。

 

ずっと真夜中でいいのに。「グズリ念」MV

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グズリ念の歌詞

心臓こじ開けて
さらっと食べて
何も感じない
雨の中ずっと煮込んでも
まずいものは不味い
世の中の意図・書が全部
響くとは限らないことわかるよ
もうでも褒められるために目指す
晴れもいいんでしょう
没頭して
ちっちゃい悪魔に
なれたら楽です 頑張ろ
ただ凌いで
魘(うな)されるのも
一時的な所業一過性
言い訳です
ロンリーナイト 
冷蔵庫の灯りが映し出す
僕の虚無を証明して
それは誰も
奪えやしないんだよ
孤独じゃなきゃ
眠れない眠れない
空っぽなオケで歌う習慣
新参お皿を舐める探究死因
やりたいことできなくて
正解じゃん
言いたいこと言えなくて
正解じゃん
アドバイス評論人類 
脳サンキュ
すり減らない日を
選ぼうよだって
余裕がない僕には
劣等感・疎外感・嫌悪感が
成長なんて今は無理だな
ロンリーナイト 
冷蔵庫の灯りが映し出す
僕の虚無を証明して
それは誰も奪えやしないんだよ
孤独じゃなきゃ
眠れない 眠れない
ほっといて
解いた凝り素早く手放せ頑張ろ
木枯らし吹け
安心なんて一時的な諸行一過性
いい加減です
皆がいいと思う曲や歌が響かない
弱る夜を肯定して
その手 時には借りてみたいけど
けれどいらない
論理無いと夢は苦さを増して
夢で会おう?
なんてことはまやかしでも
それは僕の生存戦略なんだよ
孤独じゃなきゃ
眠れない眠れない

序論 孤独の不可避性と虚無の証明

「ロンリーナイト 冷蔵庫の灯りが

映し出す僕の虚無を証明して」という一節は、

孤独と虚無が決して外部から

奪われ得ないものであることを告げている。

ここにはハイデガー

「ダスマン(世人)」が示す、

社会的存在の空虚を脱し、

自己の存在へ直面する試みが見出される。

 

虚無を「証明」するとは、

存在の根底にある空虚さを

自覚することそのものである。

 

第一章 虚無と食欲ー自己と他者の境界を侵食するもの

「心臓こじ開けてさらっと食べて

 何も感じない」というフレーズは、

食の行為により自己と

他者の境界が崩れ去る瞬間を表している。

 

これはジャン=ポール・サルトル

「他者は地獄だ」という命題を反映している。

 

他者を食する行為とは、

他者を自分の一部に取り込み、

その存在の意義を抹消する行為である。

 

それゆえに感情は鈍化し、虚無が残る。

 

第二章 感情の鈍麻と一過性ー諸行無常の観点から

「魘(うな)されるのも

一時的な所業一過性」という言葉には、

仏教的な諸行無常の思想が響いている。

 

感情とは一過性のものであり、

それに過度に執着することは

無意味であるとこの歌は告げる。

 

ショーペンハウアーが述べたように、

「人生は苦しみに満ちており、

それゆえに苦しみを減らすことこそが

人間の使命だ」という

悲観的な認識がここに流れている。

 

第三章 劣等感と疎外感の成長ーニーチェの「超人」を超えた先に

「劣等感・疎外感・嫌悪感が

成長なんて今は無理だな」という一節は、

成長に対する虚無感を表現している。

 

ニーチェ「人間は超人へ至るべき存在だ」

主張するが、ここでは超人に至るどころか、

自らの感情にすら成長の余地を

見出せない停滞が歌われている。

 

それでも歌の中では「頑張ろ」という

諦めに似た決意が示される。

 

これは、カミュの言う「不条理への反抗」に通じる。

 

第四章 孤独な夜の倫理と冷蔵庫の光ー存在の「不在」を肯定する

「空っぽなオケで歌う習慣」は、

何もない場所で歌い続けることの象徴である。

 

空虚な存在でありながら

歌うという行為は、

サルトルの言う「存在の不在」

肯定する態度に通じる。

 

冷蔵庫の光が照らし出す虚無とは、

内的世界を映し出す鏡であり、

それを外部から奪うことは誰にもできない。

 

第五章 共感の限界と「弱る夜」ー「借りる手」のパラドックス

「皆がいいと思う曲や歌が響かない」

と語るこの部分は、

共感の限界を示している。

 

ここでの「弱る夜を肯定する」とは、

自己の弱さを受け入れ、

他者からの救いを必要としない態度に通じる。

 

しかし、「その手 

時には借りてみたい」という

矛盾した願望は、

人間関係のパラドックスを示している。

 

レヴィナス「他者への応答責任」

思い出させるが、

結局は「けれどいらない」として拒絶される。

 

結論 論理の崩壊と生存戦略の必然

「論理無いと夢は苦さを

増して夢で会おう?なんてことはまやかし」

という言葉は、

論理と夢の狭間にある

自己の迷走を表現している。

 

ここにはデリダ「解体」の思想が潜んでいる。

 

論理的整合性が崩れ去る時、

夢や希望さえ欺瞞として感じられる。

 

それでも「それは僕の生存戦略なんだよ」

という言葉には、

生きるために虚無と向き合う必然が示されている。

 

おわりに

『グズリ念』は、

現代の若者が直面する

虚無、孤独、そして自己欺瞞を赤裸々に描いている。

 

この歌が伝えるのは、

孤独や虚無を否定するのではなく、

それらを自己の一部として受け入れることである。

 

「孤独じゃなきゃ眠れない」という

言葉に込められた孤独の受容は、

カミュの「シジフォスの神話」における結論、

「われわれはシジフォスを

幸福だと想像しなければならない」という

一節に響き合うのである。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。