音楽に哲学を

~国境を超えた音楽哲学がそこに~

【考察】GEMN(中島健人・キタニタツヤ)/ファタールの歌詞の意味について哲学的に徹底解説!

諸君、ごきげんよう

 

我は音楽を哲学的に考え思考する

メロディウスである。

 

今回は

GEMN(中島健人・キタニタツヤ)

ファタール

について哲学的に考察していく。

GEMN「ファタール」MV

www.youtube.com

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ファタールの歌詞

また夢から覚める、

濡れた瞼を開ける

狂おしいほど思い残す、

遠い日の無力さを呪う

身を焼かれるような

絶望も糧にはなろうか

憧れに焦がれるまま

燃やし続けている

 

キラキラお星様宿した

あなたのeyes

カラカラ渇いて

可哀想なlack of 愛?

全てを孤独から救う眩しい光

僕にだけ落ちる影はあなたのせい?

致命的な欠落をくれたね

身勝手な巨星、狂わされた生

 

お願い、

声を聞かせて、声を聞かせて

絡まって歪んでしまった傷さえ

くれたのはあなただけ、

あなただけ

お願い、

僕を見ていて、僕を見ていて

宿命に刻まれた

痛みさえ武器にして

いつかの後悔すら照らせるように

 

あなたがいないと生きていけない

何もかも捧げてしまってもいい

あなたの愛がまだ足らない

欠けたものは何で埋めたらいい?

 

致命的、致命的、致命的な愛

運命的、運命的、運命的なI

必然的、必然的、必然的な哀

僕を見ていてね、最愛のファタール!

 

キラキラお星様宿した

あなたのeyes

カラカラ渇いて

可哀想なlack of 愛?

遥か彼方から放たれた美しさに

灼かれた眼、

もがれた羽根、

創造的堕天

 

あらゆる視界をジャック

その輝きはエゴイスティック

胸の奥仕舞った感情さえ

引っ張り出して昇華して

僕という運命を

全部抱きしめていく

 

あなたがいないと生きていけない

眩しさでこの身を照らして欲しい

あなたの愛がまだ足らない

夢の中でもらうしかないのに

 

致命的、致命的、致命的な愛

運命的、運命的、運命的なI

必然的、必然的、必然的な哀

誰のものでもない、最愛のファタール!

 

何度悔やんだだろう

何度呪っただろう

どれほどの幸福を注いだとしても

満たされることのない器

何度夢見ただろう

何度願っただろう

僕の胸で膿み続けている

傷を撫でる手を

この舞台で足掻くことをやめない

ただ一つのアイに近づきたい

固く定まったこの宿命

あの星の光からこぼれた闇

 

あなたがいないと生きていけない

何もかも捧げてしまってもいい

あなたの愛がまだ足らない

欠けたものは何で埋めたらいい?

 

致命的、致命的、致命的な愛

運命的、運命的、運命的なI

必然的、必然的、必然的な哀

僕を見ていてね、最愛のファタール!

 

最愛のファタール

序論 ファタールの運命と愛の葛藤

『ファタール』は、愛と運命、

そして絶望の中で揺れ動く

人間の存在を象徴的に表現している。

 

本楽曲における語り手の

「あなた」に対する感情は、

致命的なまでの愛情と、

同時にそれがもたらす自己破壊的な葛藤に満ちている。

 

これは哲学的に見れば、

存在の根本的な問いである

「他者」との関係性に根差している。

 

デカルト我思う、ゆえに我ありと述べたが、

この思考は自己完結的であり、

他者の存在を排除する。

 

しかし『ファタール』における語り手は、

「あなた」がいなければ生きられないと嘆く。

 

これは、サルトル存在と無で示したように、

「他者は私の自由を奪うが、

他者なしには存在できない」

という矛盾に似ている。

 

第1章 愛の欠落と人間存在の不完全性

1.1 欠如としての「愛」—ラカンの「欠損」を中心に

「あなたの愛がまだ足らない」

という語り手の嘆きは、

ラカン精神分析における

「欠損」の概念と一致する。

 

ラカンは、

人間の欲望は常に何かが欠けているという

意識に基づくとした。

 

つまり、完全な愛や満足は存在せず、

常に「欠如」が人間の行動を駆動するのである。

 

この欠如が、語り手を「運命的な愛」へと引き寄せる。

 

1.2 愛が運命を構築する—サルトルの「自由と他者」

語り手は、「致命的な愛」と

「運命的な愛」を抱えつつ、

「あなた」が自らの運命に

刻まれていると感じている。

 

これはサルトルの存在主義における

「自由の束縛」とも呼べる。

 

サルトルは、私たちは自由であり、

運命を選び取るが、

同時に他者との関係が自由を制約するという矛盾を指摘した。

 

第2章 宿命と絶望の狭間で

2.1 希望と絶望の連鎖—カミュの不条理の哲学

「身を焼かれるような絶望も糧にはなろうか

」という問いかけは、

カミュの不条理哲学に共鳴する。

 

カミュは、人生が無意味であることを

認識しながらも、

そこに意味を見出すことを求めた。

 

『ファタール』における語り手も、

絶望の中にあっても何かを掴もうとする。

 

この「不条理への反抗」が、

彼の宿命を作り出している。

 

2.2 宿命としての運命—ハイデガーの「被投性」

「宿命に刻まれた痛みさえ武器にして」

という表現は、

ハイデガー「被投性」に関連する。

 

ハイデガーは、

私たちは生まれ落ちた世界において、

何らかの宿命を引き受けざるを得ないと論じた。

 

語り手がその運命を超えたいと

願いつつも、

結局は「運命」に支配される姿は、

この「被投性」を象徴する。

 

第3章 愛と破滅の美学

3.1 創造的堕天と美の超越—ニーチェの「アポロ的」と「ディオニュソス的」

「灼かれた眼、もがれた羽根、

創造的堕天」というフレーズは、

ニーチェディオニュソス的衝動」と共鳴する。

 

ニーチェは、生の狂気や破滅を

美として受け入れる態度を称賛した。

 

語り手が「あなた」によって

堕天する様子は、

破壊的でありながらも創造的であり、

美への超越を示唆している。

 

3.2 絶望からの光—キルケゴールの「美と倫理」

『ファタール』における

「絶望」は、

キルケゴール「美的実存」にも通じる。

 

彼は、人間は絶望の中で

初めて本当の自分と対峙し、

そこから倫理的な存在へと昇華すると説いた。

 

語り手も、絶望を超えた先に光を求め、

自己実現を追求している。

 

結論 ファタールとしての存在

『ファタール』における

語り手の存在は、

愛と運命、そして絶望の狭間で

揺れ動く人間の象徴である。

 

ニーチェサルトルカミュといった

哲学者たちの思想を通して、

彼の内面世界は深く掘り下げられる。

 

最終的に、語り手は宿命に抗いながらも、

それを受け入れるという「ファタール」な存在の運命を辿る。

 

※すべてはメロディウスの趣味内での解釈となっておりますのでご了承ください。